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道徳とはなにか(12月24日)

 いまの絶対的なルールとされる「憲法」など、たかだか100年そこそこの歴史しかない

 19日のフジテレビプライムニュースでは、下村文科大臣と西部邁氏をゲストに、「道徳教育と国家の尊厳」について議論を行っていた。
 「道徳」と聞いただけで、退屈でつまらんとか、偉そうだとの拒否反応が起きる。それに西部氏は、やたらと横文字を使いたがる。19日の番組に、それほど興味を持ったわけではない。
 それでも西部氏の話を聴いて、なるほどと思ったことが、2点ばかりあった。

 まず西部氏は、「国民のルールは歴史の中に自生する。道徳の基礎は伝統にある」という。
 神や宗教という絶対的な基準がない日本では、善悪の判断は長年の歴史によって、積み上げられてきた。それでも、その「慣習」のなかに、好ましい「伝統」と好ましくない「因習」がある。その善悪の基準を指し示すのが、歴史の蓄積である。
 また聖徳太子の17条憲法を挙げ、もともと日本の規範は道徳律だったという。
 これは納得した。
 いま絶対的なルールとしてみなされている「憲法」などは、たかだか100年そこそこの歴史しかない。憲法学者だからと言って、大きな顔をしてもらっては困るのだ。

 つぎに、勇気、節制(慎重)、蛮勇(無謀)、臆病を例に、ものごとの是非は、具体的な事象があってこそ、はじめて判断できるという。
 肯定的にとらえられる「勇気」と、マイナスに思われる「蛮勇(無謀)」は、紙一重である。直面した場面如何によっては、同じ行為が「勇気」にもなり「蛮勇」にもなる。「節制(慎重)」と「臆病」も同じことが言える。また、「勇気」が必要な場合と「節制(慎重)」が必要な場合は、区別するのは難しい。この4つは複雑に絡んでいる。

 たとえば人が川に落ちたとき、助けるかどうかは、救助者の力量、装備、周囲の状況、水流、水温、水量、気温、秘救助者の年齢や状況によって、是非が分れる。極悪人が真冬の濁流に飛び込んだとき、泳ぎのできない部外者が助けようと飛び込んだら、「蛮勇(無謀)」といわれる。落ちたのが子供であって、1mくらいの浅瀬だったら、「勇気」を出して飛び込む。
 だがここまで極端なことは少ないし、まったく同じ条件はない。多くの場合どうすればいいのか迷う。

 また昨日、松浦機械の会長が「殺害」されたというニュースが入った。近年同じような、介護に起因する「殺人事件」は増えている。それでも、個別の事情はさまざまである。法律上の裁定はともかく、道徳的にことの善悪を判断するのは難しい

 その判断基準を指し示すのが、歴史の蓄積である。
 
 これらを背景に西部氏は、教育で大切なのは、「国語」、「歴史」、「道徳」の3つだという。
 しかし道徳教育は大切だと言っても、こんなややこしいことを、「たかが」教師に教えられるわけがない。下村大臣は、だからこそ道徳の教科書が必要だと言う。

 そうであれば、道徳教科書の中身はきわめて重要である。日本という国家の判断基準を指し示す、宗教以上の物差しになってしまうからである。採用しておしまいではなく、試行錯誤しながら時間をかけて作っていく必要がある。
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