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著作権はいらない(知財の罠)(12月11日)

 わけのわからない音楽や小説、画像が、50年も100年も保護されると思うと、ぞっとする

 著作権法の第1条には次のようにかかれている。
 「この法律は、著作物並びに実演、レコード、放送及び有線放送に関し著作権の権利及びこれに隣接する権利を定め、これらの文化的所産の公正な利用に留意しつつ、著作権等の権利の保護をはかり、もって文化の発展に寄与することを目的とする」
 つまり、個人の創作活動を保護することによって、文化が発展するという。確かに、個人の著作権を保護することによって富が集まるから、欲に駆られ創作活動は進む。この大義を疑う人は少ない。

 しかし、本当に著作権が必要なのか? さらに、文化の発展がそんなに大事か。次から次へ出てくる、わけのわからない音楽や小説が文化なら、文化など発展しなくてもいいと思う。そんな作品が、50年も100年も保護されると思うと、ぞっとする。
 著作権が無くても、文化は発展する。むしろ、異質な文化が生まれる(上塗り文化も発展する)。

 それに、これまで消化しきれないほどの音楽が世に出ている。これに加え、毎年おびただしい数の音楽が発売される。だが、人がすべての音楽を聞けることはありえない。ほとんどの人が消化不良のまま、新しい音楽をスルーしている。もし著作権が無かったら、新作が激減する。そのほうがいい。懐メロだけで充分だ。

 音楽を大量生産している会社やアーチストは、著作権という既得権の上に立つ。しかし、その音楽がすばらしいから売れているわけではない。お金をかけて宣伝すれば、たいていのものは売れる。
 それだけではない。大量に新作を流すことによって、本当にいいものが出ない。世の中には、無名でもっとすばらしいものが五万とある。それが、既得権益者の横暴で埋もれる。

 音楽のやり取りが、自由にできるようになれば、本当にいいものが残る。既得権益がなくなるため、顧客を洗脳することが利益にならないからだ。我々は、ほんとにいいものが手に入る。

 文学や絵画、ブランドも同じである。多くの人は、専門家や権威ある人の意のまま、彼らの権益を守るようなものがいい、と信じさせられる。
 権威者は、権益を手放したくないため、「・・・大賞」とかいったお墨付きを与える。秀吉が千利休を利用したのと同じだ。だから、権威ある展示会に行っても古典を見てもつまらない。ほとんどの人は、わかった振りをしているだけである。
 芸術は、主観的なものである。人がなんと言おうと、いいものがいい。
 
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