説明責任とは
相手を批判するときの、万能の言葉は「わかりやすく説明しろ」である
日本学術会議が推薦した新会員候補105人のうちの6人を、現内閣が任命しなかったことが批判的に報じられている。任命されなかった6人は、いずれも人文・社会科学が専門で、前内閣の安保法制や共謀罪に反対した学者ばかりである。
学術会議自体は、長年の膿が蓄積し、見直すべき存在である。それを一気に解体するのは、いくら総理でも難しい。とりあえずは、法的手続きの範囲で牽制したのに違いない。問題が明るみに出ることで、世間で解体の機運が盛り上がる。実際そうなっている。
このことに関して、総理にはなぜ任命しなかったのかの説明を求める声が上がっている。同時に、日本学術会議に対しても、推薦した理由を問う声がある。

しかしいずれも、批判する相手が納得できるような説明はできない。
まずお互い、ほんとのことは言えない。
政府のほうは、任命拒否した6人について、たとえばAさんはかって中国のハニトラに遭ってスパイの疑いが濃厚である。或いはBさんは、山手線常習の痴漢として、当局にマークされている。・・・このたぐいのスキャンダルがあったらどうか。裁判でないのだから、明確な証拠の開示は不可能である。オブラートに包んで言ったら、ますますわけがわからなくなる。
つまり、「説明責任」を果たすには、すべての恥ずかしい個人情報を公にしなければならない。こんなことをばらしていいはずがない。もちろん、各自の学者としての評価も、政府なりに算出したはずだ。そんなもの、相手は絶対に納得しない。
したがって、「総合的、俯瞰的」に判断したとしか言えない。武士の情けである。
そして推薦したほうは、もっと客観的理由を説明できない。一部の人が曖昧な基準で選定したあげく、「学者の評価は政治家や国民には分からない」と言って、学者の屁理屈をゴリ押しするだけである。
日本文学会議が、村上春樹氏をノーベル賞に推薦したら、採択されるであろうか。あるレベル以上になると、主観的な印象を後付けで採点するにすぎない。スケートや体操の採点も怪しい。
だから「推薦」でも「任命」でも、重要なのはだれが行うかである。その人を決めれば、後は任せるしかない。おおかたの国内のものごとは、国民の選んだ国会議員が決めるのが筋である。その代わり、議員は選挙落ちたらただの人になる。一方、学術会員を「推薦」する人は、だれが決めるのだろうか。どうみても、たらいまわしとしか見えない。それこそ理不尽である。
そして今回の事件を見ていて、じつは学者の多くは、ほんとはアホなのではないかと、強く思うようになった。アホで失礼なら、左巻きである。

相手を批判するときの、万能の言葉は「納得できない」である。納得・理解できないのではなく、耳をふさいでわかろうとしない。そのような相手には、いくら説明してもムダである。
同じように、杉田発言(女はウソつき)への批判はやまない。彼女はブログで丁寧に説明していた。それでも氏を、批判する人は絶対に納得しない。100時間説明して、電話帳10冊分の文書を書いても理解するはずがないのである。
日本学術会議が推薦した新会員候補105人のうちの6人を、現内閣が任命しなかったことが批判的に報じられている。任命されなかった6人は、いずれも人文・社会科学が専門で、前内閣の安保法制や共謀罪に反対した学者ばかりである。
学術会議自体は、長年の膿が蓄積し、見直すべき存在である。それを一気に解体するのは、いくら総理でも難しい。とりあえずは、法的手続きの範囲で牽制したのに違いない。問題が明るみに出ることで、世間で解体の機運が盛り上がる。実際そうなっている。
このことに関して、総理にはなぜ任命しなかったのかの説明を求める声が上がっている。同時に、日本学術会議に対しても、推薦した理由を問う声がある。

しかしいずれも、批判する相手が納得できるような説明はできない。
まずお互い、ほんとのことは言えない。
政府のほうは、任命拒否した6人について、たとえばAさんはかって中国のハニトラに遭ってスパイの疑いが濃厚である。或いはBさんは、山手線常習の痴漢として、当局にマークされている。・・・このたぐいのスキャンダルがあったらどうか。裁判でないのだから、明確な証拠の開示は不可能である。オブラートに包んで言ったら、ますますわけがわからなくなる。
つまり、「説明責任」を果たすには、すべての恥ずかしい個人情報を公にしなければならない。こんなことをばらしていいはずがない。もちろん、各自の学者としての評価も、政府なりに算出したはずだ。そんなもの、相手は絶対に納得しない。
したがって、「総合的、俯瞰的」に判断したとしか言えない。武士の情けである。
そして推薦したほうは、もっと客観的理由を説明できない。一部の人が曖昧な基準で選定したあげく、「学者の評価は政治家や国民には分からない」と言って、学者の屁理屈をゴリ押しするだけである。
日本文学会議が、村上春樹氏をノーベル賞に推薦したら、採択されるであろうか。あるレベル以上になると、主観的な印象を後付けで採点するにすぎない。スケートや体操の採点も怪しい。
だから「推薦」でも「任命」でも、重要なのはだれが行うかである。その人を決めれば、後は任せるしかない。おおかたの国内のものごとは、国民の選んだ国会議員が決めるのが筋である。その代わり、議員は選挙落ちたらただの人になる。一方、学術会員を「推薦」する人は、だれが決めるのだろうか。どうみても、たらいまわしとしか見えない。それこそ理不尽である。
そして今回の事件を見ていて、じつは学者の多くは、ほんとはアホなのではないかと、強く思うようになった。アホで失礼なら、左巻きである。

相手を批判するときの、万能の言葉は「納得できない」である。納得・理解できないのではなく、耳をふさいでわかろうとしない。そのような相手には、いくら説明してもムダである。
同じように、杉田発言(女はウソつき)への批判はやまない。彼女はブログで丁寧に説明していた。それでも氏を、批判する人は絶対に納得しない。100時間説明して、電話帳10冊分の文書を書いても理解するはずがないのである。
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