専門家の見解
楽観的に進めることで経済活動を促すべき。 武漢ウィルスは覚悟だけでいい
先週16日、国会で参考人として出席した東大の児玉龍彦教授は、「東京に、新型コロナのエピセンター(感染集積)が発生し、国の総力を挙げないとニューヨークの二の舞いになる」と警告した。具体的には、「大量のPCR検査をして感染者を洗い出すことが大事」と、切々訴えていた。
さらに児玉氏は、「大量の検査をしないというのは世界に類を見ない暴挙です。感染症を専門としている人間にとって、この発想はあり得ない。」とまでおっしゃる。
東京で陽性者が拡大するにつれ、またぞろ検査至上主義が息を吹き返してきた。

一方、児玉氏と対照的に、楽観的な仮説を立てている人もいる。
国際医療福祉大学の高橋泰教授は、新型コロナは過度に心配すべきではないという。
高橋教授は、「日本人(東アジア)は、自然免疫が強く、また血栓ができにくいため、罹っても重症化しにくく、亡くなる人は少ない」という仮説を立てている。いまのところ状況は、ほぼこの通りに推移している。
この仮説を信じれば、経済活動は完全復活できる。

二人の専門家のうち、どちらが正しいか。
私自身は、児玉氏のように、やたらと危機を煽る専門家は胡散臭いと思っている。専門家は本能的に、自分たちの領域の重大性を強調することで、注目と金を集めようとする。専門知識では、他の人が反論しにくいからである。
そうかといって、高橋教授のように楽観的すぎるのも考えものである。高橋教授の考えはあくまでも仮説で、状況証拠しかない。すこしでも感染が拡大したら、それ見たことかと叩かれる。ポピュリストの政治家には採用しにくい。
ふつう、経済活動の政策を決定する場合、いずれかの見解を根拠とする。
いずれも、大きなリスクとそれなりの犠牲が発生する。トロッコ問題である。
マキャベリならどうするか。
理論にとらわれず、もっとも実害の少ない方策をとるはずである。いずれの理論にしろ客観的に考えれば、新型コロナでいくら亡くなっても、経済困窮で死ぬより、人数的にも社会的にも影響は少ない。コロナに眩んだ国民に批判されるだけである。
つまり、楽観的に進めることで経済活動を促し、武漢ウィルスは覚悟だけしておく。
さて日本のリーダーは、どのような道を選ぶのであろうか。どうも中途半端なような気がする。
先週16日、国会で参考人として出席した東大の児玉龍彦教授は、「東京に、新型コロナのエピセンター(感染集積)が発生し、国の総力を挙げないとニューヨークの二の舞いになる」と警告した。具体的には、「大量のPCR検査をして感染者を洗い出すことが大事」と、切々訴えていた。
さらに児玉氏は、「大量の検査をしないというのは世界に類を見ない暴挙です。感染症を専門としている人間にとって、この発想はあり得ない。」とまでおっしゃる。
東京で陽性者が拡大するにつれ、またぞろ検査至上主義が息を吹き返してきた。

一方、児玉氏と対照的に、楽観的な仮説を立てている人もいる。
国際医療福祉大学の高橋泰教授は、新型コロナは過度に心配すべきではないという。
高橋教授は、「日本人(東アジア)は、自然免疫が強く、また血栓ができにくいため、罹っても重症化しにくく、亡くなる人は少ない」という仮説を立てている。いまのところ状況は、ほぼこの通りに推移している。
この仮説を信じれば、経済活動は完全復活できる。

二人の専門家のうち、どちらが正しいか。
私自身は、児玉氏のように、やたらと危機を煽る専門家は胡散臭いと思っている。専門家は本能的に、自分たちの領域の重大性を強調することで、注目と金を集めようとする。専門知識では、他の人が反論しにくいからである。
そうかといって、高橋教授のように楽観的すぎるのも考えものである。高橋教授の考えはあくまでも仮説で、状況証拠しかない。すこしでも感染が拡大したら、それ見たことかと叩かれる。ポピュリストの政治家には採用しにくい。
ふつう、経済活動の政策を決定する場合、いずれかの見解を根拠とする。
いずれも、大きなリスクとそれなりの犠牲が発生する。トロッコ問題である。
マキャベリならどうするか。
理論にとらわれず、もっとも実害の少ない方策をとるはずである。いずれの理論にしろ客観的に考えれば、新型コロナでいくら亡くなっても、経済困窮で死ぬより、人数的にも社会的にも影響は少ない。コロナに眩んだ国民に批判されるだけである。
つまり、楽観的に進めることで経済活動を促し、武漢ウィルスは覚悟だけしておく。
さて日本のリーダーは、どのような道を選ぶのであろうか。どうも中途半端なような気がする。
スポンサーサイト