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原発差し止め判事

 司法や裁判は、ものごとの本筋からかけ離れたところで争う意味のない空中戦である 

 福井地裁で2014年に、大飯原発運転差し止めを命じる判決を出した樋口英明元裁判官の手記が、「世界10月号」に掲載されていた。その前に樋口氏は、この件について福井新聞のインタビューを受けたことがあり、それについて私の反論は本ブログで述べた。
 こんどの「世界」樋口氏論文は、12ページにわたって長々と記してあり、あらためてその主張を確認してみた。
 
 樋口氏によると、訴訟の論点は数年に一度発生する規模の強い地震が、来るか来ないかであった。だがこんなもの、誰にもわかるはずないし、100年に1度くらいなら原発の近くで発生する可能性は大きい。いつかこないはずがない。まさかそんなことを判決理由にしたのなら、裁判そのものがインチキである。
 だから意味のない裁判はともかく、論点の本筋は、もしそれなりの地震が発生したら、大飯原発で福島並みの過酷事故が発生するかどうかでなければならない。
 その樋口氏の見解は、以下①~③のようなものであった。それについて私の反論を併記する。

①強い地震が発生したとき、原発は必ず壊れる
 原発は複雑なプラントであり、地震でなくてもときどき壊れる。まして震度6~7の地震があれば、異常が発生しないほうがおかしい。その場合でも、圧力容器や格納容器など核心部が壊れるとは思えない。福島の水素爆発でも大丈夫だった。福島の教訓で得た知見を活かせば、必ず安全に停止させることができる。あの貴重な経験をムダにしてはいけない。それに多少の放射能漏れなど、心配すると頭が禿げるだけである。

②ゼロリスクは求めないが、「万が一の危険」は認められない
 樋口氏によると、「ゼロリスク」とは「隕石が落ちたり、何万ガルの地震が起きること」で、「万が一の危険」は「年に数回ある地震で原発が壊れること」だという。だから樋口氏は「ゼロリスク」は求めないが、「万が一の危険」は想定すべきだという。
 それなら、①で述べたように「万が一の危険」は、危険ではない。そこで地震が起こるだけである。それがどうしたのか。

③いくつもの説があれば、安全な方をとるべき
 樋口氏は、「A説の学者とB説の学者がいて、いずれも筋が通っている場合には、安全側の説を採用すべき」という。
 だがそんなことをいったら、すべて自分の思い通りになってしまう。世の中には、必ず自分と同じ意見の人がいる。アリバイつくりで政策提案を受けるようなものである。

              噴火岩 白山ワイナリー畑 H27.10.12

 最初書いたように樋口氏の話では、大飯原発の裁判は「原発が壊れる地震が発生するか」ということであった。それなら地震は発生する。それは間違いない。その意味では原告「住民」の方が正しい。だが、そんな当たり前のことを言ってもはじまらない。
 また樋口氏は、通常の地震が起こって原発施設の一部でも破壊されれば、とんでもないことになると思っている。そもそもそこが間違っている。その大きな誤解に基づいた、トンでも判決であった。
 大飯判決にあたって、樋口氏に政治的な圧力はなかったという。ということは、樋口氏にとって都合の悪い意見は聴かず、頭のなかは一方的思い込みで一杯になっていたのである。

 だから、樋口氏の「世界」に掲載した論文の中身は、長いだけで、以前の福井新聞インタビュー記事と変わっていない。いずれも原発(放射線)バイアスによる、自分勝手な思い込みに満ちたものである。これこそ先進国のエゴであって、法相界の人材不足を思い知らされる。裁判がこんな人たちに牛耳られるなら、人類の未来はない。

 つまり原発は、事故が起こるより動かないリスクの方がはるかに大きい。いま泊原発が動かないことで、北海道民が命の危険にさらされている。また海外からの化石燃料の購入やFITによって、毎年10兆円が失われている。とくに中東へのオイルマネーの支払いは、北朝鮮のミサイルの一部にもなって、日本を脅かしている。南海トラフ地震や火山噴火で火力発電所が全滅したら、原発をフル稼働しても足らない。いい加減に国民は、放射能バイアスから卒業すべきである。


 ゴーン氏の逮捕劇でもわかるように、いまや司法制度や裁判というものは、ものごとの本筋からかけ離れたところで争う、ガキの喧嘩のようなものになった。専門家の専門分野に対する特化が進み過ぎ、全体を俯瞰的にみることができなくなっているからである。
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