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相模原殺傷事件の被告

 被告は、「自分は良いことをした」と、満足して死刑台に上がりたい

 19人が殺害された相模原障害者殺傷事件から2年経過した。先日、NHKスペシャル「“ともに、生きる” ~障害者殺傷事件 2年の記録~」で、この事件を取り上げていた。この番組は、事件当時に施設にいた利用者やその家族、周囲の人たちを描いたものである。事件でけがを負わされた利用者の父親が、植松被告に面会する様子もあった。家族でなく関心を持つ人の中には、被告と接見しようとする人もいる。彼らは植松被告に対し、事件の反省を促そうとしているのだろう。

 曽野綾子氏も、≪障害を持つ子供は、800人に一人ほどの割で必ず生まれてくる。その子は、他の健康な人たちの苦難を一身に背負って生まれた、イエスキリストのような存在である。そう考えたら、障害者はムダだから殺せなどと言う発想にはならない。≫と、雑誌に書いている。障害者殺人に対する、これ以上説得力ある言葉を知らない。

              多面仏

 しかし、周囲がいくら説得しようとも、植松被告は「反省」などしないであろう。
 現に人々が被告と接見し、「家族の思い」を伝えようとしても、考えは平行線である。それどころか、「意思疎通できない障害者は社会的に不要な存在」として、いまだ事件を正当化している。そのうえ最近、被告の考え方や手記をまとめた本「開けられたパンドラの箱」が出版された。
 植松被告はいずれ死刑になる。被告にしてみれば、そのとき「悪いことをしてしまった」と後悔して死んでいくより、「自分はいいことをした」と、満足して死んでいきたい。だから被告の考えは変わらない。というより変えたくない。

 「開けられたパンドラの箱」批判に対して、出版社は「植松被告の主張をどう否定するか、社会が問われている」と出版理由を説明している。
 周囲がいくら被告の主張を否定しても、被告に有利な理論などいくらでもある。世の中には、被告と同じ考えの人はごまんといる。実行できないだけである。むしろ「先駆者」としての誇りを持っているのかもしれない。

 もとより被告にとって、死刑は覚悟の上である。「正義感」に溢れた人たちが、被告の行った行動を反省させようと躍起になることで、その思いは信念に変わっていく。社会に余裕が無くなっていくとき、我々はそれを覆すだけの理論を確実なものにできるであろうか。例えば800人に一人の障害者が、2人に一人だったらどうか。これもトロッコ問題のひとつである。
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