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真実は仮説

 真実はいくつもあるが、持論を背景とした仮説を持たなければ先へ進めない

 先日、「真実」と「事実」について、このブログで書いた
 じつはこのことは、自然現象としての「不確定性原理」、および「相対性原理」そのものである。サイエンス作家の竹内薫氏によると、客観的な事実、絶対性という枠組みでしか物事を捉えられない人は、その対極にある相対的、不確定、複数の視点、抽象的という現代物理学の世界はわからない、という。

 なにやらややこしいが、簡単に言えば「すべてはいい加減」ということである。
 究極の物質である素粒子すら、定まった場所と時間にはない。つまり世の中には定まったものはないのである。言葉や文書にしても、発信した人、受け取る人、それぞれの思いが異なれば、同じ言葉でも全く意味が異なる。

 たとえば、ピカソの奇天烈な絵を見ていただきたい。
 ピカソは、「キュビズム」という多面的な絵画表現を生み出した。1つのモチーフを描く時、右から見た図、左から見た図、上から見た図、それを1つの絵にしている。そういうあらゆる面をつなげ合わせるのがキュビズムで、あらゆる物を愛するピカソだから生まれたものである。ものごとを一面的に見る人には理解できない。

             変装 H30.5.20

 ややこしいついでに、「真実は一つでない」ということも、真実ではない。
 つまり一旦は、真実を事実として確定しておく必要がある。我々が社会生活を営んでいる以上、ものごとを曖昧にしたままでは、世の中が成り立たない。人を殺めたりモノを盗んではいけない。そのときは、それ相応の罰則があってしかるべきである。

 また極端なはなし、いま自分の財布に入っている1000円は事実なのか。これを遣えなければ、かつ丼を食べたとき支払いができない。そもそもこのお金は本物なのか。ほんとにポケットにお金があるかどうか、支払いになるまで確認できない。こんなことを考えていたらきりがない。現実に、考え過ぎ病気の人もいる。

 すなわち、具体的なことを事実として信じておかなければ、何の行動もとれなくなる。逆に言えば、知恵を総動員した持論を持つことで、ものごとの多くが確定でき、安心して先を進めることができる。
 だがそれらは、すべて仮説なのである。

 持論として仮説を持っても、それに固執してはいけない。かならず異なる真実は存在するからである。私の「妄言」も同じである。
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