FC2ブログ
RSS

文書国会の愚かしさ

 紙切れの断片的な文言が人命より重いということは、金輪際あり得ない

 国会はまだ文書で揉めている。たかが文書なのに。
 もっとも公文書というのは、われわれの考える文書とは異なるらしい。公文書の定義は、「日本の公務所(役所)または公務員が、その名義(肩書)をもって職務権限に基づき作成する文書」である。
 公文書管理法には、公文書を適切に管理するのは、「行政が適正かつ効率的に運営されるようにするとともに、国及び独立行政法人等の有するその諸活動を現在及び将来の国民に説明する責務が全うされるようにすることを目的とする」とある。

 だがこれだけでは、公文書がどれだけ重要かよくわからない。『専門家』と称する人は、自分の専門分野のことが、世の中で一番大切だと思っている。だから今回も、役所経験者など専門家の意見は当てにならない。そのうえマスコミや野党は、「重箱の隅」をつついて大げさにすることにかけては年季が入っている(もちろん今回の「事件」は、検察リークなど工作員の連携がツボに嵌った)。
            文書作成
 そもそも、「文書」とはなにか。
 国際マネジメント規格では、文書に関する定義は以下のようになっている。

 文書;情報及びそれが含まれている媒体
 情報;意味のあるデータ
 データ;対象に関する事実


 つまり文書の根本は、データ「事実」である。それが、「情報」から「文書」に転写・加工される段階で必ず変化する。
 モノの機能や性質を数値化したものは、客観的データとして、まあ信頼できる。ただヒアリング、伝聞や観察による出来事は、少なからず文書作成者の主観に基づく「情報」となる。とくに文字で書いた文書は、本来のデータ(事実)がどう変化するかわからない。

 たとえば、水道メーターの測定員が測った検針値は、データといえる(厳密に言えば違う)。データそのものを情報として紙などの媒体に書いて、代金を請求する。これを測定者以外の人が勝手に変更したら、それこそねつ造でアウトである。時そば詐欺ともいう。

 一方で、ある企業に経営状況のヒアリングに行ったとしよう。その場合の報告書はきわめて主観的である。報告者が2人いれば、同じ文書ができるということはあり得ない。重視することも違うし、識見の程度、興味や理解度も異なる。企業なら財務の健全性、社長や従業員の資質、製品の特長・将来性、仕事のしくみ、得意先、特許など、視る項目はたくさんあるし、それぞれの評価も違う。だから書いたものは、都度修正しなければ、完成された情報とはならない。その後も不断の修正が必要である(もちろん、事実と異なるねつ造は問題)。それでも正確に事実を転写したものにはならない。
 だから修正を認めなければ、文書のレベルは格段に落ちる。


 さらに文書は、公にするかしないかを明確にしなければならない。書いたものが全部公になるとしたら、ねつ造しないまでも、文書を作る人はすべてのことを書かなくなる。事実には都合の悪いことが含まれているからである。公開を前提とする文書は、いい加減なものになる。

 したがって、「知る権利」を振り回して、やたらと役所に文書提出を求めるのは、公文書の信頼性を損ねる。公開するかしないか、その文書を誰に見せるかで書き方はまったく異なる。
 自衛隊の日報問題、そして今度の財務省文書でも、国会で問題になれば、担当者がアタフタするのは当たり前である。記録文書と言っても、羅生門のように大部分は主観的なものである。改善の余地はあるし、改善しなければ組織は向上しない。
            ペッ
 ではどうしたらいいのか。
 まず、文字で書かれた文書を、あまり信用しないことである。「現場、現物」ですら絶対でなく、文書といえど伝言ゲームの一部である。優等生ほど書かれたものを妄信する(妄言よりましか)から、悲劇が起こったり、自分でものごとを考えなくなる。世の中は、ほとんど仮説なのである。

 つぎに、公開するかしないかを文書作成者がきちんと認識するしくみをつくる。永久保存は無理としても、著作権並みの保護は必要である。50年後にすべて公開するという例もある。即時公開が原則の文書なら、最初からそう決めればいい。その代わり事実の一部は書かれなくなる。いくら公務員でも、機微に触れることまで詳細に書くはずがない。

 さらに、修正する場合にはその履歴がわかるようにすべきである。あるいは配布文書も含め、完全に破棄する。財務省では、この管理がなされていなかったから、ややこしくなった。


 そして、たかが文書である。いくらなんでも、紙切れの断片的な文言の違いが、人命より重いということは金輪際あり得ない。いまの国会騒動を見たらお釈迦様が嘆く。
スポンサーサイト



トラックバック
トラックバック送信先 :