日本人は覚悟できるか
*政治・経済* > 歴史認識、軍事、外交 - 2017年07月07日 (金)
日本人の「覚悟」を、米国人に促されるほど恥ずかしいことはない
一昨日の「日本人の覚悟」は、日本人にとって現実性のない過激な発言である。大多数の日本人は、聞く耳すら持たないであろう。
5日のフジTV プライムニュースでも、一人の米国人を除いた3人は、ここに至ってはもう北朝鮮と「対話」するしか解決する方法がないと述べていた。保守論客の武貞秀士氏(拓殖大特任教授)ですら、「アメリカは北朝鮮を攻撃できないし、しない」と述べ、米朝、南北、日朝の間での「対話の開始」を提唱していた。

しかしこの番組で、私とまったく同じ意見を述べた人がいた。元アメリカ国務省本部長のケビン・メア氏である。
彼は、以下のように述べていた。
『北朝鮮を攻撃したら、ソウルだけでなく日本も報復される。核爆弾に加え、化学兵器や細菌兵器を搭載したミサイルが、雨あられのように降ってくる。朝鮮戦争のときの犠牲者を超える可能性もある。それでも叩いておかなければ、北朝鮮はミサイル能力を増強する。最悪なのは、ISなどのテロ集団に核兵器が渡ることだ。』
そうなったら北朝鮮は、核兵器をちらつかせて周辺諸国を脅すだけでない。テロ集団による、強請り集りの際限がなくなってしまう。核爆弾による自爆テロも頻発する。これこそ悪魔の世紀である。
最後に彼は、まさに「覚悟」をキーワードに、「先制攻撃」を推していた。
日本人の「覚悟」を、米国人に促されるほど恥ずかしいことはない。それでも覚悟さえ決めれば、あとは安心である。それ以上最悪の事態にはならない。いまのままでは北朝鮮の思う壺である。対話などで北朝鮮が、核放棄するはずはない。
もっとも、日本人が覚悟したからといって、米国人が安心してはいけない。北朝鮮のつぎはアメリカである。アメリカを核攻撃する権利は、日本にしかないからである。

たしかにこの考え方は、極端である。
だが、佐伯啓思氏の言葉を借りれば、真実は中庸にある。現代日本のように、一方に偏った意見だけ聞いていては、「ほどほど」や中庸はありえないのである。
一昨日の「日本人の覚悟」は、日本人にとって現実性のない過激な発言である。大多数の日本人は、聞く耳すら持たないであろう。
5日のフジTV プライムニュースでも、一人の米国人を除いた3人は、ここに至ってはもう北朝鮮と「対話」するしか解決する方法がないと述べていた。保守論客の武貞秀士氏(拓殖大特任教授)ですら、「アメリカは北朝鮮を攻撃できないし、しない」と述べ、米朝、南北、日朝の間での「対話の開始」を提唱していた。

しかしこの番組で、私とまったく同じ意見を述べた人がいた。元アメリカ国務省本部長のケビン・メア氏である。
彼は、以下のように述べていた。
『北朝鮮を攻撃したら、ソウルだけでなく日本も報復される。核爆弾に加え、化学兵器や細菌兵器を搭載したミサイルが、雨あられのように降ってくる。朝鮮戦争のときの犠牲者を超える可能性もある。それでも叩いておかなければ、北朝鮮はミサイル能力を増強する。最悪なのは、ISなどのテロ集団に核兵器が渡ることだ。』
そうなったら北朝鮮は、核兵器をちらつかせて周辺諸国を脅すだけでない。テロ集団による、強請り集りの際限がなくなってしまう。核爆弾による自爆テロも頻発する。これこそ悪魔の世紀である。
最後に彼は、まさに「覚悟」をキーワードに、「先制攻撃」を推していた。
日本人の「覚悟」を、米国人に促されるほど恥ずかしいことはない。それでも覚悟さえ決めれば、あとは安心である。それ以上最悪の事態にはならない。いまのままでは北朝鮮の思う壺である。対話などで北朝鮮が、核放棄するはずはない。
もっとも、日本人が覚悟したからといって、米国人が安心してはいけない。北朝鮮のつぎはアメリカである。アメリカを核攻撃する権利は、日本にしかないからである。

たしかにこの考え方は、極端である。
だが、佐伯啓思氏の言葉を借りれば、真実は中庸にある。現代日本のように、一方に偏った意見だけ聞いていては、「ほどほど」や中庸はありえないのである。
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