責任能力
最後は、社会がなにをどこまで受容できるかである。ゼロリスクはない
大阪市のJR新今宮駅ホームで女性2人が突き飛ばされ、1人が線路に転落した事件の容疑者が、先週大阪府警に逮捕された。大津市の無職28才の男で、軽度知的障害があって責任能力について問題となっている。
多くの人は、つぎのようなコメントを寄せている。
≪これまで自由にさせてきた事に疑問を感じる。≫
≪責任能力がないなら、一生外に出すな。≫
≪障害があっても、取れる責任はあるはず。≫
≪責任能力とか、やめて欲しい。それを主張する弁護士とか、似非人権団体とかも消えて欲しい。≫
たしかに、知的障害があるから許されるとしたら、「被害者」は堪ったものではない。だれかを責任者にしないと、泣き寝入りになってしまう。

しかし、ことはそれほど簡単ではない。
この出来事は、以前痴呆老人がJRの列車にはねられ、遺族がJR側から損害賠償を請求された事件とよく似ている。あのときは最初、遺族に損害賠償を求めた判決がなされていた。それに対し、ほとんどの人は、「被害者」であるJRや裁判所をバッシングしていた。今回とは、非難する相手がまるで反対である。
たまたま今回は人に対する危害で、痴呆老人の場合は自らの命を損傷した。それでも、本人の責任能力という点では、今回の場合と本質的には変わらない。異なるのは、本人が亡くなっていたか、そのまま逃げたかの違いだけである。
あのときは最終的に、遺族の責任は問わないという司法判断が出て、世間は納得した。そのため責任の行き場が、有耶無耶になってしまった。その判例に従えば今回、責任能力のない本人かその保護責任者が損害賠償をするのもおかしなことになる。だが、だれも賠償しないのでは被害者が浮かばれない。
認知症や知的障害のある人など、善悪の判断がつかない人が社会にいる限り、必ずこのようなことは起こる。いくら熱心な保護責任者でも、できることには限度があるからだ。

ではどうしたらよいか。
本人や保護責任者にも、ある程度の責任すなわち損害賠償の一部は取らせ、残りの部分は社会全体で保険のような形で受け継ぐのが自然であろう。その上で、社会全体でこのような人たちを見守るような態勢を取らなければならない。
社会は必死に考える。本人に対する薬物による鎮静化や物理的隔離などもあっていい。場合によっては、人々の注意を促すような表示をする。あるいは被害に遭った人は、天災だと思うようにすれば、あきらめもつく。
最後は、社会がなにをどこまで受容できるかにかかっている。どんなことでも、ゼロリスクは絶対にありえないからである。
大阪市のJR新今宮駅ホームで女性2人が突き飛ばされ、1人が線路に転落した事件の容疑者が、先週大阪府警に逮捕された。大津市の無職28才の男で、軽度知的障害があって責任能力について問題となっている。
多くの人は、つぎのようなコメントを寄せている。
≪これまで自由にさせてきた事に疑問を感じる。≫
≪責任能力がないなら、一生外に出すな。≫
≪障害があっても、取れる責任はあるはず。≫
≪責任能力とか、やめて欲しい。それを主張する弁護士とか、似非人権団体とかも消えて欲しい。≫
たしかに、知的障害があるから許されるとしたら、「被害者」は堪ったものではない。だれかを責任者にしないと、泣き寝入りになってしまう。

しかし、ことはそれほど簡単ではない。
この出来事は、以前痴呆老人がJRの列車にはねられ、遺族がJR側から損害賠償を請求された事件とよく似ている。あのときは最初、遺族に損害賠償を求めた判決がなされていた。それに対し、ほとんどの人は、「被害者」であるJRや裁判所をバッシングしていた。今回とは、非難する相手がまるで反対である。
たまたま今回は人に対する危害で、痴呆老人の場合は自らの命を損傷した。それでも、本人の責任能力という点では、今回の場合と本質的には変わらない。異なるのは、本人が亡くなっていたか、そのまま逃げたかの違いだけである。
あのときは最終的に、遺族の責任は問わないという司法判断が出て、世間は納得した。そのため責任の行き場が、有耶無耶になってしまった。その判例に従えば今回、責任能力のない本人かその保護責任者が損害賠償をするのもおかしなことになる。だが、だれも賠償しないのでは被害者が浮かばれない。
認知症や知的障害のある人など、善悪の判断がつかない人が社会にいる限り、必ずこのようなことは起こる。いくら熱心な保護責任者でも、できることには限度があるからだ。

ではどうしたらよいか。
本人や保護責任者にも、ある程度の責任すなわち損害賠償の一部は取らせ、残りの部分は社会全体で保険のような形で受け継ぐのが自然であろう。その上で、社会全体でこのような人たちを見守るような態勢を取らなければならない。
社会は必死に考える。本人に対する薬物による鎮静化や物理的隔離などもあっていい。場合によっては、人々の注意を促すような表示をする。あるいは被害に遭った人は、天災だと思うようにすれば、あきらめもつく。
最後は、社会がなにをどこまで受容できるかにかかっている。どんなことでも、ゼロリスクは絶対にありえないからである。
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