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障害者施設テロ

 犯人をナチスになぞらえ完全否定することが、そのままナチスの優勢政策そのものである

 先日神奈川県の障害者施設で、数十人もの殺傷事件があった。19人が死亡し、26人が重軽傷を負ったという、日本最大のテロ事件である。先月フランスの花火会場ダンプカー事件で、80名が死亡したことに加え、刃物でもここまでやれるとは吃驚である。

 犯人は、その施設に勤務していた20代の男性である。以前から障害者の安楽死を主張しており、「税金を無駄遣いする」障害者のない世の中をつくるため、自ら手を下したという。犯行後も、「後悔はしていない」と言っているそうだ。

 ほとんどのメディアや評論家は、犯人が弱者である障害者を、邪魔者のように扱ったことを糾弾している。ある新聞の論説でも、「すべての国民は幸福になる権利があり、抵抗できない弱者を抹殺するという、身勝手で歪んだ論理が通用するわけがない」と論じている。ナチスになぞらえ、人の尊厳を否定するものだとして、ネットでも極刑を求める声が多い。
 もちろん「健全」な社会では、彼のような「邪悪」な思いは封印すべきである。したがって、面と向かって犯人を擁護する人などいない。

            成仏 H27.12.15

 しかし、この犯人の考え方に共感する人は、まったくいないのであろうか。私には、少なくない人々の心底には、わずかでも同調する気持ちがないとは思えない。私自身も(口には出せないが)、心中の1%ぐらいは「よくやった」という感覚があり、どうしてもその思いを払拭できない。
 
 人は霞だけでは生きていけない。もともと、他の生き物の生命を奪って私たちは生きている。それでも、自分から遠い種の生物を喰らっている人ほど、その罪深さは少ない。植物、細菌(発酵食品)、節足動物、魚類、爬虫類、両生類、ほ乳類(牛、豚)、類人猿・・である。人類の歴史を見れば、敵対する種族の人肉を糧とすることもあった。いざとなれば、最後は自分自身を食う。

 障害者は、この中のどこかに属すると考えるのは生物的・歴史的必然である。しかも自分や肉親からは、やや離れている。今度の犯人は、その思いが膨れ上がって、現実の行動に移っていったのであろう。人間の尊厳などと言うのは、後付けの論理である。

 したがって、このような邪悪を封印するのではなく、なぜこれがいけないのか納得できるまで説明するのが、学者の使命である。それができていないから、邪悪の思いが現実の世界にまで膨らんでしまったのである。
 
 犯人の行動をナチスになぞらえ完全否定することが、そのまま、自分と異なるものを排除しようとするナチスの優勢政策そのものであるということに、気付いてほしい。そもそも人は、大いなる矛盾の中でしか生きられない。
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