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物事の正しさ(27年10月9日)

 いずれの方法も根拠となる「前提」や「事実」が間違っていたら、まったく意味をなさない

 「演繹法」は、物事を考えるさいに、最初の前提から次の前提を導き、それを繰り返して結論を導く方法である。論理的に考えて結論を出す。
 たとえば、
 前提1、犬はみな生き物である。前提2、生き物はみな死ぬ。
 この前提1と2から「犬はみな死ぬ。」という結論がでる。ただし、この前提及び前提と結論のつながり方が正しくなければ、結論は正しいとは言えない。

 「帰納法」は、いくつかの具体的な事例から結論を推測する方法である。つまり、演繹法のように厳密に前提を追っていく方法とは違い、仮説を立ててそれを検証して、実際に観測された実例をもとに結論を導く。データの量が多いほど信頼性が増す。
 たとえば、
 はじめに「犬は50歳以下で死ぬ」という仮説を立て、つぎ本当に犬が50歳以下で死ぬかどうかを検証する。たくさんの犬を観察し、50歳前に死んだという事実(データ)を採取。その結果として、「すべての犬は50歳以下で死ぬ」という一般結論を得る。実例の数は多ければ多いほどいい。ただし、一匹でも51歳の犬がいる場合、「すべての犬50歳以下で死ぬ」は否定され、その代わり「ほとんどの犬は50歳以下で死ぬ」という、ゆるい結論が残る。

 どちらも、議論での結論を導く方法である。帰納法で得た結論を演繹法での「前提」とするなど、現実にはこれらを意識することはあまりない。

 しかし、いずれの方法も根拠となる「前提」や「事実」、またそのつながり方が間違っていたら、まったく意味をなさない。国会だろうがTV討論だろうが、巷の討論はその「事実」や関連性を、さもほんとらしく言う。それにみんなが騙される。

              おかめたこ

 たとえば、
 1票の格差をめぐる論争で、格差是正の急先鋒に立つ升永弁護士は、2013年11月19日の弁護士ニュースで、つぎのように述べている。

(1)≪憲法上、両議院の議事とは、国政に関する議事のことであり、立法や内閣総理大臣の指名などだ。国民が「正当に選挙された国会における代表者」を通じて行動すると、憲法に明記されている。したがって、国会議員の過半数で決めるが、主権は国民にあるのだから、"議事を決する(賛成か反対か票を投じる)"だけで、国会議員が主権を行使することはあり得ない。≫

(2)≪そこで、升永弁護士は、「『「両議院の議事」を決する「出席議員」の過半数が、全出席議員が代表する選挙人(主権者)の過半数を代表していること』が必須である」「すなわち、【「出席議員」の過半数】の意見は、【「出席議員が代表する主権者(国民)の過半数】の意見と等価でなければならない」と結論づけている。」

 しかし、主権は国民であるのはいいとしても、国民一人一人の議決権が平等であるとは限らない。国民のどんな人も同じだと考えたら、それこそ悪平等である。その理由は山ほどある。19歳のエリート学生の権利を、棺桶に片足を入れた認知症患者が奪っている現実をどう考えるのか。
 すなわち、「主権は国民にある」ことが、「国民一人一人の重さが出席議員と等価である」ことを示してなどいない。したがって、(1)から(2)を導き出すのは、どう考えても無理がある。

 そもそも、今の憲法こそ日本国民の主権のない、占領下で生まれたものである。しかも、いまの国民ほとんどが知らないうちに制定された。国民主権を無視したいい加減な憲法が、なぜ国民主権を主張できるのであろうか。
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