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更新を一時中断します(9月29日、30日、10月1日)

 東北 岩木山、八甲田その他、山岳観光地視察
【日程】
・9月28日
 福井~新潟港(フェリー乗船)
・9月29日
  秋田港~白神山地~岩木山~酸ヶ湯温泉
・9月30日
  八甲田山~姫神温泉
・10月1日
  姫神山登頂~温泉~福井へ
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白山(別山)の景観

御舎利岳よろ 剣~槍・穂高 H22.9.24
 御舎利岳より 北アルプス 剣~槍・穂高 (平成22年9月24日撮影)

芋ほり(9月28日)

 宝永愛会で、5月に植えたサツマイモ掘りを行った。参加人数は25名ほど。
 現地(坂井丘陵地)に8時30分到着し、まず長く絡まったつるの切断除去、そこからスコップで掘り起こし、出てきたサツマイモの選別、袋詰めを行った。
 今年の収穫は、昨年の半分ぐらい。夏の暑さで、畑の水が干上がってしまったらしい。

 宝愛会芋ほりつる H25.9.28   宝愛会芋ほりいも H25.9.28

 たまに、化け物みたいに大きな(2キロ程度)ものもあれば、小指程度しかないものもある。また、虫に食べられて穴の開いたもの、貧相なたて皴でとても食用に適さないものも多かった。掘り起こす時に、スコップで切断してしまうものもあった。半分以上は、商品としての売り物にはならない。きわめて歩留まりが悪い。本職の農業者は、どの程度の歩留まりで採取しているのだろう。
 私は5月に植えてから見に来ていないが、有志で、その間に水撒きなどの手入れを何回か行ってきたという。その手入れのばらつきもあるし、場所によっても出来が違うようだ。それでも、10キロほどの分け前にあずかり、12時に終了。

 もし個人でサツマイモの植え付けと収穫を行うなら、植え付けや中間手入れの方法、土の硬さや性質、場所などの違いで、どのように出来が違うか研究できたはずである。これを何年かやれば、労少なく、出来のいいサツマイモがたくさん取れると思う。

 スコップの掘り起こしが200回以上、草刈りや芋ほりなどで無数に立ったり座ったりしたので、くたくたである。やはり人力だけでは限界がある。

白山(別山)の景観

御舎利岳より別山を望むH22.9.24
 御舎利山より別山 (平成22年9月24日撮影)

3Dプリンタの限界「量産試作」(9月27日)

 3Dプリンタではできない「ユーザー評価のための試作」製品を提供する事業がおもしろい

 新製品を作る場合、いきなり量産するわけにはいかない。まず、形を作って試す。すなわち、「試作」がきわめて重要である。その強力な助っ人が「3Dプリンタ」である。
 3Dプリンタは、まずアイデアを形にして、それが想定通りかどうかを試すのには、絶好の機械である。(3Dプリンタと試作

 じつは、その製品を市場に出すためには、つぎに手強い谷が待っている。「商品化」に至る「死の谷」である。いくらその品物がうまく機能したとしても、消費者に受け入れられなければ意味がない。実際に使ってみれば、思いもよらない問題が必ず発生する。ライバル商品とも比較される。従って、実際のユーザーにその製品を供与して問題点と改善策を明らかにし、修正する必要がある。量産するときの問題点もチェックしておきたい。
 この評価の段階を疎かにすれば、市場に出してから、奈落の谷底に落ちる羽目になる。

 それを防ぐため必要なのが「量産試作」である。本格的な生産に入る前に、50~100個を製作して多くのユーザーに使ってもらい、求評・モニタリングを行う。たいてい、そこで修正が入る。これは3Dプリンタではできない。数個以上を作ろうとすると、あまりにも時間とコストがかかりすぎるからだ。さらに3Dプリンタは、実際の商品と同じ材料を使うことができないため、強度などの性能や、使い勝手を評価することが難しい。

 この課題を解消するため、越前市の(株)H金型は、従来高価だと思われていたプラスチック成型金型の構造を工夫し、50~100個程度の中量プラスチック製品を、きわめて安価につくる方法を開発した。
 従来、量産用の金型は、1型少なくとも、数十万円から高価なものは1000万円にもなる。製品を何万個も作る場合には、威力を発揮するが、50個~100個では、きわめてコストアップになってしまう。

 そこでこの会社は、金型の構造や材質を工夫し、従来の1/10以下のコストでの金型製造を可能にした。そうすれば、成型する製品の1個当たりコストも安価になる。1~2個作るぐらいでは3Dプリンタに軍配が上がったとしても、50個、100個となると圧倒的に有利である。
 この金型で何万という量産はできないが、市場のモニタリングに使用するための、100個程度の中量生産には、存分に威力を発揮する。さらに、(プラスチックでできた商品の場合)量産品と同じ材質で成型できるため、機能面での評価も正確にできる。この試みは、県内では初めてである。

 (株)H金型は、この事業を開始したばかりであるが、すでに何件かの受注をこなしている。3Dプリンタで金型を製造する方法も模索中である。
 ただ勘違いして、従来の金型を安価に製造するのだと思って、金型を発注するお客もいる。そこはきっちりと、簡易金型としての区別をつけておかなければならない。中途半端では、かえって本業の金型事業の足を引っ張ってしまうからだ。

白山(別山)の景観

チブリ尾根より白山御前峰を望むH22.9.24
 別山 チブリ尾根より白山 御前峰を望む (平成22年9月24日撮影)

3D(次元)プリンタと試作(9月26日)

 複雑な3次元形状のものを、少しだけ作る場合には、圧倒的な時間短縮とコストダウンができる

 昨日から「福井新聞」がこの特集を組んでいる。この1~2年のうちに、3Dプリンタが、急に脚光を浴びてきたからである。
 ただこの原理の機械は、20年以上前から市販されていた。その当時は、「光造形装置」といって、1台数千万円もしたあげく、仕上り具合も雑駁だったのだが、ここにきて大幅にコストダウンされた。いまや安価な機械では、数十万円で手に入る。これには、コンピューターの格段の性能アップも寄与している。

 3Dプリンタの原理は、作ろうとする形状の3D数値データを寸切りにして、各層ごとにおもにプラスチックを硬化させて、積み重ねていく。つまり、2Dを積み重ねることによって、3Dにするのである。

 その積み重ねの方法は、次のようにいくつもある。

①プールされた液状プラスチック表面の一定厚さを、所定の形状に紫外線などで硬化させ、その固まったプラスチックの層を積み重ねていくもの(工業技術センターにある)

②液状プラスチックの代わりにナイロンなどの粉末プールを使って、所定の形状にレーザ光線で硬化させ、その固まったプラスチックの層を積み重ねていくもの

③細いワイヤ状で供給される樹脂を高温で溶かしながら、層ごとに所定の形状に固まらせていくもので、現在最も広く利用されている方法である

④プラスチックをインクジェットで吹き付けて、1層ごとに紫外線で硬化させる方法

⑤石膏粉末を1層ごとに接着剤で固めて積層する方法

 
⑥金属粉末をレーザー熱で固めて積層し、滑らかに切削する方法 (松浦製作所が開発・25日の福井新聞)

 
 こんなややこしいものを、文章だけで説明するのは難しいが、それぞれに一長一短があり、使用される材料も限定される。もちろん3Dプリンタを動かすためには、3Dの数値データを作成することが必要だ。

 それでも、複雑な3次元形状のものを、ほんの少しだけ作る場合には、圧倒的な時間短縮とコストダウンができる。手書きとワープロの違いに似て、微調整や修正も容易である。試作・開発を促進するための、ものすごく強力な武器になるはずだ。

 ただ、3Dプリンタも万能ではない。次回、その弱点を補うための技術を開発している企業を紹介したい。

 関連記事
 3Dプリンタの限界「量産試作」

白山の景観

白山 砂防新道 入り口吊り橋H25.7.20
 白山 砂防新道登り口にある大吊り橋 (平成25年7月20日撮影)

どうやって死ぬか、死なせるか(9月25日)

 象でさえ、自らの死期を悟って、群れを離脱する。人間なら、「名誉」ある死に方をしたいと思うはず

 厚生労働省は今月10日、2012年度の医療費動向調査結果を発表した。医療保険と公費から支払われた概算医療費は、前年度比1.7%増の38兆4000億円となり、10年連続で過去最高を更新したという。

 これが、医療の現場ではどうなっているか。
 里見清一氏(臨床医)は、連載している新潮45の8月号の記事「なかなか死ねない社会」の中で、「これから高齢者が増えると、死者が増えていくのは間違いない。彼らをどうするのか」という問題提起をした後で、つぎのようなことを述べている。

 ≪どこで死ぬのか。誰が「死なせる」のか。山田風太郎は、65歳になった志願者を日本武道館あたりに集めてガスで安楽死させろと書いた。京都のK子先生は、「国立往生院」を作って100歳になったら全員に行ってもらえと説いている。ビートたけしはかつて、「80歳以上は死刑!」と言った。わが編集者は、交通事故の犠牲者が70歳以上であれば、加害者は免責されるべきだと嘯いている。
 私にはいずれも荒唐無稽とは思えない。・・・・≫

 同感である。むしろ生ぬるいくらいだ。つまりこれらの提案では、死んでもらうのにも、手間と費用が掛かる。どうせ死ぬのなら、ついでに世の中に貢献してもらいたい。むしろ、死んでいく本人のほうが、その思いは強いのではないか。
 象でさえ、自らの死期を悟って、群れを離脱するという。人間ならば、もっと「名誉」ある死に方をしたいと思うだろう。私も、「犬死に」は御免である。

 具体的には、兵役、防疫、災害援助、遭難救助、地雷除去、薬の治験、高所作業、深海作業、原発作業、宇宙作業などである。とくに「兵役」は、狙い目である。国連軍や外国の傭兵となって、外貨を稼ぐこともいい。「慰安所」などは不要である。

 関連記事
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白山の景観

白山 砂防新道新甚の助小屋H25.7.20
 白山 砂防新道にある新築なった甚の助小屋 (H25年7月20日撮影)

半沢直樹(9月24日)

 ドラマ制作者の何倍も世の中を見ている高齢者にとって、白々しさが鼻につきだしたらおわりである
 
 「半沢直樹」は、バブル末期に大手都市銀行に入った半沢直樹が、さまざまな人間や組織の圧力と戦うシリーズ小説を、TVドラマ化したものである。日曜夜9時の放送ということもあって、40%もの視聴率を稼いで評判になった。先日10回シリーズが終了したが、大詰めに大きなドンデン返しがあった。
 
 このドラマは、なぜ受けたのだろうか。
 芝居がかった大仰なせりふ回し、期待を裏切らない勧善懲悪、実際の銀行業務を彷彿とさせるような人事や業務内容(かなり大げさではあるが)で、自分ができないことを半沢直樹に託して、ドラマを観た人が多かったのではないか。
 筆者も、最後の2回分だけであるが、面白く拝観させてもらった。

 ところで筆者はこれまで、あまり映画やドラマを、面白いとは感じなかった。いつも何か白々しい思いがするからである。どういうことか。

①登場人物の行動に必然性が無い。なぜそのような行動をとるのかわからない。
 典型的なのは、「半落ち」である。これは、警官である主人公が、自分が骨髄を提供した相手を世間から隠すために、自分や組織を窮地に陥れようとする。これが、このドラマの核心部分である。
 ところが、筆者(だけかも)には、なぜそれほどまでにして提供相手を隠さなければならないか、さっぱりわからなかった(しかも刑務所に入って、また骨髄提供しようとする。いざとなれば、報道協定があるではないか)。これがわからないから、ドラマの肝心な部分が、(筆者には)ボケてしまったのである。

②偶然起こることが多すぎる
 ミステリードラマでよくあるのは、もみ合っているうちに階段から転げ落ちて死んでしまうことである。或いは、ついそこにあった花瓶で殴りつけ、死んでしまうのだ。こんなにホイホイと人が死ぬなら、高齢問題などとっくに片付いているのだが。

③最後に、白々しい「人道的な」お説教が入る
 これもミステリードラマでは、最後に主人公が、観念した犯人に「青臭い」説教を垂れる。犯人は、自分の犯行を悔い改めて自首する。という、あまりにも見え透いた筋書きが多い。

④登場人物の名前がよくわからない
 短期記憶の無くなった我々高齢者が、短い時間で顔と名前を一致させるのは、至難の業である。とくに、外国ドラマはいけない。みんな同じような顔に見え、よく似た名前がつぎつぎ出てくる。
 「LAW & ORDER」は面白いが、よほど頭の回転を良くしないと、ついていけない。

 以上、これは高齢者から見たドラマの欠点である。逆に高齢者向けのドラマを作るには、この欠点を排除すれば受けるかもしれない。

 ちなみに「半沢直樹」もこの「欠点」を内包していた(全部観た人は違うというかもしれないが)。

①25年前の怨念を、ここまで引き連れるのか。そもそも父親は、自殺する必要があったのか。
 それに、大銀行という組織では、「出向」は、そんなに忌み嫌われるのか、「本社勤務」が、それほど居心地がいいのかは、(中小企業を渡り歩いたあげく自営している)筆者には、理解できない。

②外国の大ホテルと好条件で提携できたことや、半沢の妻が「偶然」に岸川部長の娘と黒埼の婚姻を知ったこと。(それだけ網を広げていた努力の結果かもしれないが、現実はあまり努力は報われないのだ。)

③最後の取締役会で半沢が、銀行員としての「良心」を講釈し、追いつめられた岸川部長が「改心した」ことである。

 もちろん、いいところは多い。最初記述した点に加え、

④登場人物は、悪相・善相バラエティーに富んでいて、わかりやすかった。

 ドラマだ、と言ってしまえばそれまでである。だが、ドラマを制作する人の何倍も世の中を見ている高齢者にとって、白々しさが鼻につきだしたらおしまいである(べつに高齢者に観てもらう必要はないけど)。
 10回で終わって、ちょうどよかったのではないか。

白山の景観

白山エコーライン下より南竜H25.7.20
 白山 エコーライン下合流点より南竜小屋を見る (平成25年7月20日撮影)

放射線の人体影響 原子力フォーラム講演より(9月23日)

 放射線の人体に対する影響など、誰もわかっていない。そのため、危険性だけが独り歩きする

 昨日、丹南産業フェアで行われた「原子力フォーラム」に参加した。講義が2つあった。
まず、「もんじゅの安全対策の取り組みについて」という題で、原子力開発機構の飯島隆氏。つぎに「知ろう 学ぼう 放射線」という演題で、富山大学の鳥養祐二氏が講演した。
 最後に、30分ほど意見交換会を行って終了した。

 この中で、鳥養祐二氏の放射線に関する説明に興味があった。講義であらためて確認したことは、被災地の20~50㎜Sv/年という線量は、全く問題がないこと。そしてまちがいなく言えるのは、放射能を恐れるあまり、おかしな行動をしてストレスを溜めることが、最も悪いということだけである。
 今回の鳥養氏の説明は、あまり流暢でないだけに、誠実さがにじみ出ており、利権まみれの「原子力ムラ」という感じはしなかった。

 ただ講演の内容は、初歩的な知識を並べただけで、取り立てて新しい知見を得ることはなかった。これまで筆者が、いろんな文献などで仕入れたことの再確認である。もっとも、1時間足らずで、放射線のことを幅広く伝えるのは無理である。これではかえって、人々の不安を掻き立ててしまったのではないか。
 今回の場合も、講演内容は、放射線の人体への影響だけに絞ったほうが良かったと思う。できれば、これまで散々人体リスクを煽ってきた学者諸氏(児玉龍彦氏、小出裕章氏、武田邦彦氏、肥田舜太郎氏、小佐古敏荘氏など)の論説について、学術的な反論があると面白かった。

 筆者が知りたかったのは、低線量被ばくによる活性酸素発生の程度である。たとえば、年間100㎜Svという線量は、毎日ジョギングを300m行ったと同じなのかどうか、ということだ。放射線もジョギングも、いずれも活性酸素は発生するが、同時に免疫力も強化される。
 たぶんこんなことは、特別な研究者以外調べたことはないはずで、質問しても(生体の専門家でない)講師を困らせるだけであったろう。すなわち、放射線の影響と言っても、総合的にすべてを判断できる「専門家」など、この世にはいないのである。

 質問と言えば、参加者の一人が「内部被ばくについて教えてほしい」と言っていた。こんな漠然としたことを、簡単に説明するのは大変である。案の定、鳥養氏は説明に四苦八苦し、質問者も何かぶつくさ言っていた。たぶん、この人も「反原発」者の一人なのかもしれない。
 こういう人たちが聞いている中で、放射線の安全性を強調するのは大変である。ほんとうは鳥養氏は、もっと安全を強調したかったのだと思うが、遠慮しているのがありありと見えた。
 このようにして、危険性だけが独り歩きしていくのだ。

白山の景観

白山頂上より 大汝峰、剣ヶ峰、血の池等H25.7.20
 白山 頂上より 大汝峰、剣ヶ峰、血の池 (平成25年7月20日撮影)

消費増税は利権の巣(9月22日)

 消費税増税というのは、官僚や政治家が、その利権を守りたいためだけに行う

 10月1日には総理が、消費増税を発表するという。マスコミ報道では、もうこれは既定路線に近いようだ。与党の代議士も、あたりまえのように言っている。「決断する政治を取り戻す」など、訳の分からないことを言い出す人もいる。でも、ほんとに決断するのなら、消費税をゼロにしたらいい。そのほうが、日本経済は確実によくなる。

 なぜ消費税増税が必要か。推進する政治家や役人の理屈は聞き飽きた。国の借金が1000兆円を超え、このままでは返済できなくなる。金利が上がると大変だ。高齢化社会に向け、毎年1兆円もの社会保障費が増えていく、・・などである。
 これに対して筆者は、「国がいくら借金しても、その分国民が金持ちになるのだから問題ない。」と言ってきた。その代わり、「国民は、一所懸命働く必要がある。」とも言った。そうすれば、いくら借金が増えても、取り立てる人などいない。これは理論上間違いない事実である。
 ただ、こんなことは当然わかっているはずの、頭のいい官僚や政治家が、なぜそんなに消費税増税に執拗にこだわるのか。軽減税率業界との癒着利権だけにしては、あまりにもしつこすぎる。

 じつは、高橋洋一氏によると、消費税増税は、官僚や政治家が、次のような利権を守りたいために行うというのである。
 すなわち、
 国の借金が1000兆円あったとしても、資産は600兆円もある。この中の200兆円余りは、特殊法人など役人の天下り機関に、投資あるいは貸付金として渡っている。高橋氏は、「そんなに財政危機が大変なら、国の資産を処分するのは当たり前」と言っている。当然である。
 ところがそんなことをされると、役人の天下り先がガタガタになってしまう。これまで、長年積み上げてきた利権の巣窟が根こそぎ失われる。その資産を処分されないために、消費税を上げるのである。
 消費税を上げても、資産の処分は必要だとは思うが、高橋氏によると、そこにまたややこしい仕組みが内在している。そのからくりは、あまりにも巧妙である。
 消費税という、財務省に息のかかった財源が増えるだけでも、笑いが止まらない。
 
 それにしても、役人の利権のためだけに、消費税を上げて日本をめちゃくちゃにするのだけは、絶対避けなければならない。そんなに利権が欲しいなら、天下り法人も温存すればいい。その懐に入ったお金が貯蓄され国債に回るだけである。いくら財政赤字が増えても構わない。
 10月1日にはぜひ、「来年、消費税は上げない」という、決める政治をやって欲しい。

白山の景観

白山頂上H25.7.20
 白山 御前峰 頂上付近 (平成25年7月20日撮影)

プロ野球と陸上競技(9月21日)

 せせこましい採点競技や勝ち負けだけのスポーツより、陸上競技の方が、わかりやすく面白い

 今年、プロ野球で偉大な新記録が2つも生まれた。
 打撃部門では、ヤクルトのバレンタイン選手の57号ホームラン。投手部門では、楽天田中投手の開幕21連勝である。破られない記録はないが、こうもあっさりと破ってしまうとがっかりする。日本の野球の歴史が浅いということである。

 もっとも、王選手の55本のホームラン記録は、実質的にとっくに破られていた。これまで、3~4人の外人選手が、55本までは到達している。敬遠で封印されただけで、もともとパワーのある外人なら60本ぐらいは打てたはずである。 
 また、野球のようなスポーツ記録は、あくまでも相対的なものである。つまり相手による。一概に昔と比べても意味はない。日本とアメリカの違いも大きい。相撲や柔道などの格闘技も同じである。(だからと言って、今回の記録が偉大なことは、間違いない)

 それに比べ、陸上競技の記録は、絶対的なものである。水泳も同じである。グラウンド条件や用具の影響はあるとしても、今と昔の記録を比較することには意味がある(スキーやスケートは条件が違いすぎるが)。人間の体力とそれを活かすトレーニング方法の発達が、そのまま記録にあらわれるからである。
 その結果、マラソンや短距離走の記録が、伸び続けている。これは、昔より今の選手のほうが強いからにほかならない。

 もちろん勝負スポーツにも、野球のように、投球スピードを競ったり、ベースの走行時間を競うことはある。また陸上競技でも、中距離走などは「格闘技」だと言われ、記録より勝ち負けが優先される。
 しかし、何と言っても陸上は記録である。また、勝ち負けも単純で、どちらが勝ったかすぐ分かる。せせこましい採点競技や勝負スポーツより、陸上競技を見る方が、はるかにわかりやすく好ましい。

白山の景観

白山 頂上直下 H25.7.20
 白山 頂上直下の登り (平成25年7月20日撮影)

「偏狭な」ナショナリズム(9月20日)

 せめて、「偏狭な」を外さなければ、お互いの認識のずれは直らないであろう

 雑誌「世界」に投稿するリベラル派論客の中で、寺島実郎氏はいちばんまともだと思う。論理は落ちついており、しっかりと筋道が立っている。原発に関しても、いたずらに毛嫌いし「反対」だけを唱えるのではなく、原発導入の歴史や米国をはじめとした外国の思惑、技術や再処理問題などを俯瞰的に捉えていた。

 しかし彼の論調の中で、ひとつ引っかかる部分がある。それは、「ナショナリズム」の頭に必ず「偏狭な」という修飾語が入ることである。
 たとえば、「世界8月号」の「能力のレッスン・特別編」で、安倍政権半年の政治を、つぎのように評価している。
 
≪・・・ また、偏狭なナショナリズムと近視眼的自己主張の中で、近隣アジアからの孤立と米国からの失望を招き、米中の接近と、米中二極によるアジア太平洋秩序の制御という流れを誘発しているという認識もない。 我々はこの恐るべき視野狭窄から脱却しなければならない≫(太字筆者 引用終わり)

 この引用文の内容についても、反論したい。「認識もない」のではなく、ずれているのである。現政権は、いたずらに中国におもねりその属国になるよりも、「日出ずる国」として、強い国を作ろうとしている。そのための経済政策ではないのか。また、あきらかに理不尽な韓国からのちょっかいは、相手にしないだけである。
 それを、「偏狭なナショナリズム」の一言で片づけてしまうところに、彼の限界がある。せめて、「偏狭な」を外さなければ、お互いの認識のずれは直らないであろう。

白山の景観

白山 御前峰途中より室堂センターH25.7.20
 白山 御前峰への途中からの室堂センター (平成25年7月20日撮影)

琵琶湖の環境(9月19日)

 人間が手を加えたものは、そのことが原因となって、つぎに何が起こるかわからない

 だいぶ前(昨年)ある研修会で、森下郁子氏(淡水生物研究所所長)の、湖や河川における生態系の話を聞いた。話に脈絡がなく、論点がわかりにくかったが、これまでの常識を覆すような内容は面白かった。ポイントを無理やり3つにまとめてみる。

①建設工事を行う場合、人間の浅知恵で環境保護をしないこと
 たとえば、河川におけるダムなどの堰堤を作るとき、「環境」に配慮するため、魚道を確保しようとする。そうすると、その河川の魚は、人工的な魚道に慣らされて野生味がなくなり、捕食者の餌食になってしまうのだそうだ。動物園で飼いならされた野生動物と同じである。
 基本的に河川は、1年に1回か2回だけ、堰堤を超えるような氾濫があれば、生態系は十分に保つという。かえって人間がおかしな細工をすることによって、生物がひ弱になってしまうのである。

②人間が一度手にかけてしまったものは、放棄できなくなる
 昔、琵琶湖で(2兆円規模の整備事業のとき)鮎を保護する対策をとった結果、鮎が増え、それを捕食する水鳥が増えた。そのため、それを撮るカメラマンが増大して、琵琶湖周辺道路がつくられ、さらに観光客が増えた。ここまでで約30年。
 それはいいのだが、増えた水鳥は、琵琶湖の中州・竹生島に大量の糞を撒いて、島の木を枯らしてしまったそうだ。その被害の深刻さから、今度は水鳥の狩猟を解禁して大量の水鳥を捕獲、やっと元に戻ったという。この段階でもおよそ10年。
 しかしそのあとも、ブラックバス騒動など、次から次へと変化が起こる。つまり、一度手を加えてしまったものは、そのことが原因となって、つぎに何が起こるかわからない。放っておけないのである。

③環境には容量がある
 当たり前であるが、琵琶湖沿岸も、30万人の人口なら、汚物垂れ流しでも自然の浄化作用で、生態系は保たれるそうである。しかし、今やここには120万人が住んでいる。下水工事などなんらかの手を加えなければ、人間が住めない。やはり今の日本は、江戸時代の3000万人程度の人口が、一番いいのだろう。

 質問しようと思って時間切れになってしまったが、結局何もしなくても、生態系というのはそれなりのところに収まるのではないか。人間は、害を及ぶす目先のことにさえ、右往左往していればいいのかもしれない。
 (金額は定かではないが)鳥獣被害を防ぐために柵などを作るための補助金が250億円で、被害そのものは、400万円?という、ばかばかしい話も聞いた。補助金の無駄遣いは、どこにでもある。これは天下りと同じ、合法的であるだけに始末が悪い。

白山の景観

白山 室堂平より頂上 H25.7.20
 白山 室堂平より 御前峰(平成25年7月20日)

安倍総理のIOCでのスピーチ(9月18日)

 そもそも、あの程度の放射能が流出したところで、何がどうなるものでもない。人間ほど生命力が強く、しぶとい動物はいない

 安倍総理の、IOCでの5輪誘致演説について、賛否両論に分かれている。福島第一原発汚染水漏れについて、総理がきっぱりと「放射能はコントロール下にあり、ブロックされている」と言ったことである。
 この総理の言葉が、誘致の是非を決めたと言われるほど、インパクトがあった。

 ところが国内で、この総理の言葉に噛みついている人が大勢いる。民主党は、今度の国会で、「真意」を追及するという。
 また、もともと原発に批判的であった小出裕章氏は「嘘である」と断言した。氏曰く「海というのはみんな繋がっています。汚染は福島第1原子力発電所の敷地から流れ出て、結局は全ての海に流れていってしまうのです。その時に薄まっていくというだけであって、どこかで完全にブロックされるなんてあり得ません。」

 あたり前である。そもそも、高濃度の液体や気体を「完全」に閉じ込めておくことなど、できるはずがない。雨が降ればタンクが溢れるのは当たり前だし、あんなシャバシャバの液体を、タンクに永遠に保存しておけるわけがない。多少の漏れは、想定内である。
 安倍総理が「コントロールされ、ブロックされている」と言ったのは、総理自身がそう信じ、その決意を表明し、その場で約束したことにほかならない。IOC委員は、まさしくその言葉が聞きたかっただけである。それ以上でも以下でもない。真実など誰にもわかるはずがない。

 それに、あの程度の放射能が流出したところで、何がどうなるものでもない。量によるが「10万ベクレルのトリチウム」などの、センセーショナルな報道に驚く必要はない。人間ほど生命力があって、しぶとい動物はいないのである(だから70億もはびこる)。報道されないだけで、隣の国などこの何百倍垂れ流していることやら。それでも人口が増えて困っている。
 細かいことに心配しすぎるから、病人が増える。高齢社会として、もっと「老人力」を発揮しようではないか。

窓の花

窓の花 朝の元気は ほんのわずかの 命かな(平成25年9月16日撮影)
 朝の元気花 ほんのわずかで すぐ萎れる (平成25年7月16日11時撮影)

韓国人の本心(9月17日)

 民族として韓国人や中国人を糾弾するということは、日本人もしょっちゅう行っている

 ≪韓国で、95歳の男性が「日本統治時代はよかった」という発言をしたところ、そこに居た男に、殴られて死亡するという事件が起こった。≫(13日J-castニュースより)

 事件は今年5月、ソウルの宗廟市民公園で起こった。ここは高齢者たちの憩いの場で、多くの人々が囲碁や世間話を楽しむ。被害者の朴さん(95)も、その一人だった。そこで、酩酊した黄被告(38)と朴さんが話すうち、何気ない一言「日本の植民地統治は、良いことだったとワシは思うよ」が黄被告の「逆鱗」に触れたのだという。
 「愛国者」である黄被告は朴さんの発言に激怒し、その杖を奪って、頭などを殴りまくった。朴さんは頭蓋骨や脳などに重傷を負い、やがて死亡した。傷害致死罪で逮捕された黄被告は、この9月10日、懲役5年の判決を受けた。

 問題はそこからである。韓国内では、この凶悪殺人犯である黄被告への擁護論が少なくない。安重根を英雄視するような、異常な国であることは間違いないが、ついに自国民にさえ、死をもった言論弾圧を行うようになったのか。
 この事件を報じた世界日報さえ、「酒の勢いで愛国心の度が過ぎた」と、同情的だという。さらにネット上では、黄被告を「愛国青年」などと称し、殺人を正当化するコメントが多数寄せられている。もっとも、黄被告は自分の罪を「正当化」するために、わざと老人の言葉をねつ造した可能性もある。その結果、量刑が軽くなったとしたら、それこそ韓国の異常さを物語っている。

 ただ、不思議なことに、我々日本人が韓国旅行に行って韓国人と接しても、このような態度をみじんにも感じたことはない。数か月前乗った大韓航空機内でも、添乗員はきちんとサービスしてくれた。個人的に嫌がらせを受けたというような話も、ほとんど聞かない(昨年の中国デモのときはすごかったが)。日本国内で韓国人に接した時も、同じである。あれほど日本人に敵対している韓国人も、そのときだけは本心を隠しているのだろうか。

 じつは、民族として韓国人や中国人を糾弾するということは、日本人もしょっちゅう行っている。先日、老人同士の酒の席でも、「婚外子格差の違憲判決」反対で盛り上がり、裁判官の罷免と同時に中国人の排疎まで、満場一致で同意した。裁判官の罷免は実現するかもしれないが、中国人の国外退去は難しいであろう。いくらその場で勇ましいことを言っても、本人の前では何も言えなくなってしまうからである。「ガス抜き」として盛り上がっているにすぎない。

 ただ、今のところは、「ガス抜き」で済んでいるが、これで済まなくなったときはどうするか。「戦争」でけりをつけるしかない。では、そのときはいつか。我々が接触する韓国人から、明らかに個人的に敵対行為を受けたと感じたときである。そうなったら、もう後戻りはできない。

窓の花

窓の花 本体は枯れても元気な 朝の顔(平成25年9月16日撮影)
 本体は 枯れても元気な 朝の顔(平成25年9月16日撮影)

老人力の発揮(9月16日)

 現実をあるがままに受け入れ、命さえどうだっていい。これが生物本来の姿なのだ

 今日は、「敬老の日」。台風で中止になったが、地区の小学校では、75歳以上の「老人」を対象に敬老会が行われることになっていた。昔は65歳以上であった。そうするとほとんどすべての住民が対象となってしまう。75歳以上でさえ、住民の30%を超えているのではないか。(250世帯で、75歳以上180人)

 しかしそうなると「敬老」の意味がなくなる。老人が希少だった時代とは、まったく事情が変わった。みな口には出さないが、敬老会場は「姥捨て山」の様相を呈してきた。準備、歓待する人も高齢者では、「鶴」になる人がいない。
 このような状況では、すべての人が「老人力」を発揮し、泰然自若として開き直るしかない。

 たとえば、
 14日(1昨日)に地域の壮年団の小旅行で、勝山市内を見学した。昔の壮年団だから、私が一番「若」く65歳。最高齢は、90歳くらいで、平均年齢は70歳代中頃であろう。
 私が、集合時刻に行ったときには、すでに全員集合してバスに乗車していた。幹事が人数を数えて、出発予定時刻の5~6分前に出発。10分ほどして、突然幹事のところに、「出発5分前に集合場所に行ったら誰もいない」と、電話が入る。そのときは、参加をあきらめるということであったが、さらに10分ほど経って、(運転手の気が変わったのか)迎えに戻ることにした。30人ほど乗せたバスがUターンである。

 バスが、出発予定時刻の前に出発してしまったということは、あきらかに幹事の失態である。すでに目的場所までの半分以上は進んでいる。あまり乗り心地の良いバスではない。それにも拘わらず、全員それを淡々と受け入れている。文句ひとつ言うわけでもない。
 結局、予定時刻より大幅に遅れ現地に到着した。

 これこそ「老人力」の典型である。無気力というより、現実をあるがままに受け入れている。
 高齢化が進んでいくと、命さえもどうでもよくなる。こんな気楽な生存活動は、近代の人類史上初めてではないか。というより、これが生物本来の姿なのかもしれない。

 したがって政治家は、なにも高齢者に気を使うことはない。高齢者に対する年金、医療費、介護などの施しは、思い切りバッサバッサ切り捨てればいい。高齢者は、何も言わずそれを受け入れるであろう。(そうなればいいね。)

白山の景観

白山 五葉坂を登り室堂センターへH25.7.20
 白山 弥陀ヶ原から五葉坂を登り切って、室堂センターに到着(平成25年7月20日撮影)

フランス雑誌掲載の諷刺画(9月15日)

 この際、日本人もフランスに対して、えげつないブラックジョークで返してみよう

≪福島第1原発事故の問題を抱える日本が、2020年夏季五輪の開催地に選出されたことを風刺する漫画を掲載し、日本側からの怒りを買っている仏週刊紙「カナール・アンシェネ(Le Canard Enchaine)」は12日、「一切の呵責(かしゃく)を感じることなく風刺画の責任を負う」と述べ、日本人にはユーモアのセンスがないと嘆いた。 12日AFP=時事より≫

 そもそも、あの風刺画の意味がよくわからない。しかし今回、フランス側は謝罪すべきである。何はともあれ、文化の異なる日本人の瘡蓋(かさぶた)を剝がしてしまったのだ。ヒロシマ・フクシマは、日本人にとっての琴線である。フランス人の考えで、ユーモアのセンス云々を言うべきではない。
 たとえば、アメリカでは黒白を強調するだけで、訴訟になる。日本人がアメリカへ行って、黒白の垂れ幕を貼って葬式すると大騒ぎである。それと同じだろう。ばかばかしいが、感情面でのグローバルなどあり得ない。
 もともとフランスをはじめとした欧米は、ブラックジョークを得意としているため、往々にしてこういうことになる。

 フランス側がどうしても、謝罪しなくて開き直るなら、この際、日本人もフランスに対して、厭らしいブラックジョークで返してみよう。フランス人の気に障るウィークポイントを突くのだ。フランス人から見ての、センスのあるなしは、関係ない。

①オランド大統領は、オランダ人がオランウータンに産ませて、フランスへ投げ込んだ?
②アル中フランス人が、ワイン栓抜きと発射ボタンを間違えて、核ミサイルをバチカンへぶち込む?

 我ながら、日本人から見てもセンスがない。今いい案を思いつかないが、もっとえげつないやつを、ぶちかまそうではないか。

白山の景観

白山 弥陀ヶ原より白山を臨むH25.7.20
 白山 弥陀ヶ原より白山御膳峰 (平成25年7月20日撮影)

八百長相撲(9月14日)

 世の中に、八百長力士を非難できる資格のある清廉潔白な人はいない

 大相撲で、注目するニュースが二つあった。もと大関把瑠都が引退を表明したこと、そしてもと琴光喜の解雇を認める判決が下ったことである。把瑠都の引退は、惜しいが仕方がない。しかし、琴光喜の件に関しては、まだ釈然としない。その背景にあった、八百長騒動である。

 数年前、八百長を意味したメールが公にされ、大相撲をめぐる騒ぎが大きくなったことがあった。あのときは、春場所が中止になるという、前代未聞の出来事にまで発展した。しかし、あそこまでの騒ぎ方は、大げさすぎると思う。あの八百長騒ぎなど、たかが三下力士の、仲間内の馴れ合いに過ぎない。生々しいメールの遣り取りという「決定的」証拠が、たまたま公表されてしまったための騒ぎである。

 ところで、大相撲の八百長を槍玉にあげるのはともかく、それ以外のスポーツで、真に公明正大なものがあるのだろうか。野球や柔道、サッカーなど、ほとんどが審判の有意性に悩まされている。フィギアスケートや体操など採点競技は、疑惑だらけである。どちらが勝ったかわからない。 
 スポーツ以外でも、国会、地方議会は、行政との馴れ合い、八百長が当たり前である。とくに地方議会は、作文の朗読会と化している。役人は、自ら法律・条令・施設を作り、そこに天下っている。これらは、巨額の税金を遣っているだけに、大相撲の八百長なんかより、はるかにたちが悪い。

 そもそも大相撲は、世界に誇る、わが国の生い立ちに係わる伝統行事であり、神事である。伝統に則った作法そのものに、意味がある。伝統と宗教、それに沿った形式美、興行とスポーツ、これらが渾然一体になって維持されてきた。これからも、そうでなくてはならない。勝ち負け重視の西洋スポーツと、一緒くたにすべきではない。

 さらに重要なことは、あれだけの体重・体力を持ちながら、ガチンコで勝負をする力士が、少なからず存在することである。そんな競技は、世界にない。逆に、一人の力士だけで年90番(十両以上、全部で3000番近く)も行う勝負が、すべてガチンコだと、けが人は倍増するし、見ているほうも気が気でない。

 暴力団の介入、賭博に絡む八百長は論外として、馴れ合い八百長も、やりすぎがいけないのは、もちろんである。しかし人がやることだけに、完全には排除できない。そのあたりの機微をわきまえれば、成熟社会としての大人の対応ができるのではないか。
 世の中に、彼らを非難できる資格のある、清廉潔白な人などいないはずだ。