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技術士の資質向上

 「有能性の重視」を口実に難しい仕事を受けなければ、イノベーションを阻害する

 技術士筆記試験の、今年度の合格発表があった。合格者は年末年始の口頭試験を受ける。その試験を受ける際、必ず覚えておかなければならない事項に、3大義務と2つの責務、そして10項目の行動指針がある。

 そのなか、技術士の「資質向上の責務」(47条の2)では、「技術士は、常に、その業務に関して有する知識及び技能の水準を向上させ、その他その資質の向上を図るよう努めなければならない」とある。

 多くの場合、「資質向上」は仕事の遂行を通してなされる。いくら机上で勉強しても、現場の仕事では、役に立たない。ほんとに力が付いたと実感できるのは、これまでできないと思っていた仕事ができたときである。またどんな仕事にも新しい要素がある。実践することで力が付き、それがイノベーションとなり、経済成長を支える。もちろん専門外の仕事を受けるといっても限度がある。ライセンスなしに、ジャンボ旅客機の運転や、すい臓がんの手術などを行うわけではない。

                飛躍

 一方、技術士の行動指針の中には「3.有能性の重視」というのがある。ここでは、「技術士は、自分の力量が及ぶ範囲の業務を行い、確信のない業務には携わらない」と謳っている。ここで、簡単にできることしかやらないというのは、明らかに先の「資質向上の責務」と矛盾する。

 そしてこの行動指針が、多くの技術士の資質向上と技術革新を制限している。現実の仕事は千差万別である。自分の力量の範囲で確信の持てる業務などほとんどない。やったことのあるやさしい仕事ばかりでは、仕事量も限定される。

 つまりできることしかしない「3.有能性の重視」は、人の怠け心を増幅させてしまう。
 最近の私も、しばしば「3.有能性の重視」を理由に、頼まれた仕事を断るようになった。これではもう、資質向上など望めない。
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笑顔とコミュニケーション

 笑顔をつくるタイミングと顔づくりセンスを磨く訓練が必要

 笑顔は、コミュニケーションを円滑にする。すべての人間関係には、お互いの感情や理解の壁がある。笑顔がもたらす明るい雰囲気は、希望のオーラを感じさせ、その壁に穴をあける。人と接するときに笑顔を作るようにすれば、好感を持たれ人間関係が築かれる。他人との間だけでなく、自分自身の殻を破ることも出る。

 たとえば、全英女子オープンゴルフで優勝した渋野日向子選手である。最終日最終組の優勝争いという、極度にプレッシャーがかかる中でも、笑顔を絶やさず実力を発揮した。明るい人柄に、観客はみな渋野選手の虜になった。

 日本の航空会社のスチュワーデスも、笑顔を絶やさない。居酒屋の店員も同じで、彼らが仏頂面していたら、追加注文するお客がいなくなる。

 長らく低迷していた稀勢の里が、大関になって何年か後、土俵下で笑顔を見せるようになってから、一皮むけてきた(気味が悪いという人もいるが)。それまでは緊張でピリピリしていた。顔が緩んでからは、毎場所優勝争いに絡むようになり、やがて横綱に昇進した。

 最近では、河野外務大臣が中国報道官と自撮りSNS発信した笑顔写真は好評であった。

                引きつった笑顔

 しかし、どんなときも笑顔が許されるわけではない。人が悲しんでいるとき、葬式で笑顔のあいさつする人はいない。いま韓国の報道官が日本に何か言うときのキツツキのような顔面は、般若から阿修羅に変化した。

 また人と場合によっては、笑顔が人を不快にする。いつも国会で、麻生財務大臣が含み笑いしているのを、野党は嫌がる。バカにされたと思っているのだろう。たしかに麻生大臣の笑顔は、野党を見下している。タイミングと、顔づくりのセンスも難しい。

 さらに、笑顔そのものが似合わない人がいる。たとえば、元東京都知事の桝添氏である。ムリして笑顔を作っているのだが、表情がかたく不自然である。つい、底なし沼に引き込もうとする人食い河童を想像する。つまらないことで都知事を辞める羽目になった一因である。

コミュニケーション

 韓国政府が日本に取っている態度は、会話の原則に真っ向から反している

 これまで私が訪問した、80%以上の企業経営者は、自社の内部課題として、コミュニケーション不足を挙げていた。経営者と幹部、或いは従業員、顧客や仕入れ先など、社内外でコミュニケーションが必要な場合は無数にある。数多くの会議体や伝達のためのしくみをつくりながら、形式だけに終わっている組織もある。
 コミュニケーション不足は、「整理・整頓」と同じ、企業自身が問題だと認識していながら、改善されることがない。永遠の課題である。

 そのコミュニケーションにおける会話で重要なのは、相手の話を聞くこと。すなわち「傾聴」である。その場合、つぎのようなルールを守る。

①他人の意見を批判、否定しないこと
②他人の意見は、どんどん広げていく
③愚痴や不満を言わない

 つまり多くの場合、コミュニケーションは、討論ではない。意思や内容がうまく伝わることが大事である。
               私たちは幸せでした
            
 これに真っ向から反しているのが、韓国の日本に対する言動である。
 黒田氏によると、韓国人は日本からの発信に対し、必ずつぎの3つの姿勢で対応する。

①論点をすり替える
②声高に威嚇する
③国際社会に触れ回る

 まさにいま、韓国政府が日本に取っている態度である。日本が韓国の輸出入管理体制の不備から、韓国をホワイト国から除外したことに対し、日本の言い分を聞かず、罵詈雑言の限りを尽くしている。

①ホワイト国除外は、徴用工問題の意趣返しであることにしてしまった
②盗人猛々しい日本、天皇がひざまずいて謝罪せよなどとする、大統領や側近の言動
③WTOや国連、アメリカ、EUの高官などに、怒濤のロビー活動を行っている

 これは「傾聴」とは対極にある。さらに日本の放射能管理にいちゃもんをつけ、昨日は、GSOMIAの破棄まで決定してしまった。さらに竹島への不法上陸ももくろんでいる。日本は単に貿易管理体制を変更しただけなのに、その100倍も次々と嫌がらせの手を繰り出してくる。あきれるほどしつこい。たちの悪いストーカー以上である。
 これでは、いつまでたっても会話は成り立たない。

質より量

 これだけあれば一つや二つは秀逸なエッセイがあるはず

 製品開発、生産の効率化、デザインや音楽など、あらゆる分野に「革新」が求められている。その革新的なアイデアを生み出すもとになるのは、思いつきである。思いつきをバカにしてはいけない。成熟したアイデアになるには、まずその卵である「思いつき」が必要である。それを取捨選択し、栄養を補給し、トレーニングを積み重ねることで、まともな理論が生まれる。

 すなわち、ひとつの革新的なアイデアを生み出すためには、背景にその100倍~10000倍もの失敗アイデアが必要である。少なくとも頭の中では、それ以上無数のアイデアが生まれ消え去っている。
 だからアイデアは、『質より量』なのである。

              地獄の風景

 すべての技術や文明も、数えきれない失敗の中から出てきた。
 原発など、まだ大きな失敗は数えるほどしかない。完璧になるには、あと100回くらいの失敗が必要である。それなのに再稼働さえ毛嫌いする人がいる。日本人は、目先の恐怖におびえるサルになってしまった。まともに考えたら、原子力より犠牲の少ないエネルギー源などあるはずがない。

 このブログも、ほぼ6年近く書いて、2000本を超えた。まさに質より量である。ほとんどは失敗作で、さらに掲載していない駄作も山ほどある。普通なら、これだけあれば一つや二つは秀逸作がある? いずれ国際コンクールで入賞すれば、この理論の正しさが証明される(たぶんそれは100年後である)。

同一労働同一賃金

 成果主義が壊れるとソ連崩壊の2の舞になる。なにごともほどほどにしたい

 同一労働同一賃金は、ざっくりと「同じ仕事をしている人には、同じだけ賃金を払う」ということである。おもに、正規と非正規の間の差別をなくす目的で推進される。先駆けてEUは、1997年のパートタイム労働指令で「同一労働同一賃金」を定めた。欧州各国でのパートは、正社員の8割から9割の水準である。日本では、非正規の賃金は正規の6割に満たない。日本政府は、欧州並みの8割に近づけたいという。

 欧米では「この仕事、このポスト」と職務・職種を明確にして採用する。日本でも、医者や看護婦、教員、介護士など、国家資格と仕事内容が結びついている分野は、ほぼ同一労働同一賃金である。つまり、いくら腕利きのベテラン医者でも、診療報酬は、新米のヤブ医者と同じである。経営コンサルタントも、公的業務では、出来栄えに関係なく同じ報酬である。

                ぶら下がり

 しかし多くの日本の職場では、採用時にどこに配属されるか、どんな仕事をするかはわからない。多能工が進めば進むほど、明確に職務や職種を分けることは困難である。
 そして同じ仕事についていても、そこには歴然とした差がある。
 たとえば、五木ひろしが「横浜たそがれ」を1曲歌えば、100万円もらえる。新米歌手なら1000円程度である。私は200円払わないと歌わせてもらえない。歌唱力にそれほど違いがないのに、不公平である。それなのに、労働基準監督署に訴える人はいない。

 ここまで極端でなくても、サービス業に従事している人は、決して「労働=賃金」では無い。同じ時間で、同じ内容のサービスを施してもまったく違う。ナイトクラブのNO1ホステスとお茶ひきが、「同一労働・同一賃金」なんてことはありえない。顧客にどれだけ満足して貰えたかが重要で、それが次回の指名に繋がり、そのまま所得に反映する。
 わかりやすいのは、販売担当者である。マニュアルに沿ったセールス活動を行っても、実際に売れる金額は何倍も違う。生産従事者でさえ、数倍ぐらいの違いはいくらでもある。これが同じ賃金だったら、みなやる気をなくし、会社が潰れる。

 もちろん、「同一労働同一賃金」が成果主義を否定しているわけではない。だが、成果を示すのが難しい職種はいくらでもある。あまりに従業員の平等が行き過ぎると、ソ連崩壊の2の舞になる。日本はいつも極端に振れるから怖い。なにごともほどほどである。

感動経営

 「感動」できない人は、まともなお客にも経営者にもなれない

 先日、診断士協会のスキルアップ研修会、「従業員の主体性を引き出し、業績を高める企業支援のあり方」に参加した。講師は、(株)佐々木感動マーケティング代表の佐々木氏である。氏はキャリアコンサルタントとして、おもに「人」と「会社経営」の両面にフォーカスした企業支援を行っている。

 内容は、事業を伸ばしている企業における、人づくりの成功例をあげたものである。坂本光司法政大教授の「日本でいちばん大切にしたい会社」と同じ、人を大事にする経営の実践例である。とくに目新しいことではなく、あたりまえのことをやるだけである。それができないのが世の中である。
 レクチャーの中で、あらためて考えたのは以下の2点である。

               イッチーノ
 
 まず仕事の優先度について。
 仕事には、つぎの4つの種類がある。 
①緊急性が高く重要な仕事→お客への対応、クレーム処理、発送業務など
②緊急性が低くても重要である→未来への投資、5S・安全活動、経営理念の確立・浸透
③緊急性は高いが重要でない→優先度の低い打ち合わせ、突然の来客
④緊急性も低いし重要性もない→使わない資料作り、目的にないムダな仕事

 このなかで、①と④についてはたいていわかる。わかるから①の仕事はやるし、④はしない。だが、②と③は微妙である。たいてい、②(緊急性が低くても重要である仕事)を後回しにして、③(緊急性は高いが重要でない仕事)をやりたがる。②の仕事は煩わしいし、すぐ結果が出ないからである。
 じつはこのとき、②を優先するかどうかによって、その組織の優劣が決まる。めんどくさい②の仕事より、大したことはないが急ぎの仕事の方が魅力的である。まわりの受けもよい。だがこれを続けていけば、②を実行する力が無くなり、組織はじり貧を免れない。
 もちろんこの4つについて、それぞれ具体的な仕事がどんなものか、会社で明確にしておく必要がある。それがいい加減だと意味がない。

              客が来ない H30.8.18

 つぎに、「満足」と「幸福」の違いについて。
 端的に言えば、「満足」は「今だけ、金だけ、自分だけ」であって、「幸福」は「三方よし」の世界である。
 会社なら「満足」は、給料、ボーナス、休暇、役職などの待遇である。「幸福」は、達成感、働き甲斐、成長、社会貢献など、主体的に動くことによって感じるものといえる。欲求5段階では、「満足」は低次の欲求、「幸福」は自己実現の欲求を満たす。
 つまり、経営においての「感動」は、お客様の「満足」を超えたところにある、「幸福」状態である。
 
 だが、これまでこの2つを混同して使っていた多くの人にとって、いまさら違いといわれても困る。「満足」が低俗となると、「満足度日本一」常連である福井県のイメージが悪化する。             
 またこれは、製品やサービスを供給するほうも同じである。ここ数年来、私がセミナー講師になってしらけてしまうのは、自分自身が感動できなくなってしまったからである。感動できない人は、お客にも経営者にもなれない。

中小企業の後継者

 大企業の余剰人材は、ムダな資格取得やセミナーより中小企業の経営に参加すべき

 元マイクロソフト社長の成毛眞氏は、「MBA取得で成功した起業家は一人もいない」という刺激的なタイトルの論文を掲載していた(PRESIDENT Omline 2018.11)。
 このなかで成毛氏は、人生100年時代をどう生きるかにあたって、
 ≪40代以降のビジネスマンにとって社会人MBAコースや各種のセミナー、資格取得にはほとんど意味がない≫と述べる。

 なぜなら、
 ≪ビジネススクールも、セミナーも、オンラインサロンも、すべてに共通するのは、結局は、何もしていないのに、何かしているように錯覚してしまう≫からである。

              だるま

 では何をすればいいのか。
 彼は、仕事を「ダウンロード」すればいいと言う。つまり、いま勤めている会社より規模の小さい会社、そして地方の会社に狙いを定めて転職するのである。

 「中小企業白書」によれば、これから10年のあいだに、70歳を超える中小企業・小規模事業者の経営者は約245万人となり、その約半数の127万社もの企業では後継者が決まっていないという。しかも黒字企業が半分以上を占めており、後継者、あるいは番頭になってくれるようなミドルエイジをのどから手が出るほど求めている。

 こんな宝の山を発掘しない手はない。
 大企業でうだつがあがらず腐っているより、地方の中小企業で勝負をしたほうが、はるかに飛躍する可能性は大きい。知人や縁戚をたどれば、いくつかはそのような企業に当たるはずである。
 もちろん大手企業には、斜陽産業である銀行員も含まれる。


 これまで大企業出身者は、大企業のプライドや手法を、そのまま中小企業に持ち込んで失敗することが多かった。それでも数は力である。さらに中小企業経営者も柔軟になった。すべてが成功しなくても構わない。うまくいくのは10%でいいのである。

兼業による労働市場の活性化

 すべての人が100才まで働く覚悟をしなければ日本はやっていけない

 働き方改革法案が通るまでもなく、世の中は時短が進んでいる。前にも書いたが、今後時短が進むと日本全体では、毎年8.3兆円の残業代が消滅する。もちろん労働時間も減る。これは正規労働者200万人分である。ただでさえ人手不足の日本で、これだけ労働力が減少すればサービスレベルの低下は避けられない。日本で供給力が不足すると、(海外への支払いが増え)財政赤字が大問題になる

 そうかといって、これを外国人労働者に頼るのは愚の骨頂である。未活用労働者の活用や既存労働者の生産性向上など、地道な努力が必要である。重要なのは、生産性をあげること。そしてミスマッチをなくすことである。世の中には、いくら頑張っても生産性の低い仕事がある。そこから生産性の高い事業へ人材が移行する。スムースに人材が移動できれば自ずと生産性は向上する。

 普通なら、職種を変えるのは並みたいていのことではない。とくに、10年以上同じ職種についていた人は、異業種の仕事などは直ちにできない。医者や弁護士など、その職業に至るまで多大な投資をしてきた人ならなおさらである。

            箱根の関所 H30.6.16

 ではどうすればいいか。
 兼業できる仕事を探す。残業時間が減った分で、他の仕事を行う。できれば次世代、有望になる仕事がいい。アメリカ労働統計局の予想では、看護師、運営管理者、ソフトウェアアプリ開発者、システムアナリストなどらしい。多くの人が兼業できれば、おのずと生産性の高い職種を見つけ移動しやすい。

 日本では何がいいかわからない。少なくとも一つだけよりはましだ。農業など有望である。だがその分野の専門家になろうと思ったら、少なくとも、その分野で高校レベルの知識くらいは、あらかじめ習得しておく必要がある。そうでなければ、単純労働しかできない。
 人生100年の時代に入った。すべての人に、早々に死んでもらうか、100才まで働く覚悟をしなければ、人材しか資源のない日本はやっていけない。

教える難しさ

 人に教えるためには、その内容の10倍の知識量が必要である

 ある業種の企業内教育を、2日間コースで行って欲しいという要請を受けたことがある。私の専門分野だが、丁寧にお断りすることにした。その分野の経験と、体系的に人に教えることとはまったく異なる。まして集合教育の場合、そのための準備とスキルが必要である。誰もが幼稚園や小学校の教師になれるわけではない。


 私自身、まったく集合教育をしないわけではない。7~8年前まで、ISO9001・14001の監査員養成コースと称し、それぞれ2日間の講習を行っていた。また生産管理や5Sなど、ものづくり関連でも、一回1~3時間の講演を、公的機関や個別の企業向けに行っていた(これはいまもたまにある)。
 そのカリキュラムや教材をつくるのに、2日コースなら数週間以上、1~3時間のコースでも1週間程度の準備が必要である。さらに、講習のたびに内容を変え、新しい教材資料を作成する。だから、まったく新しい内容を教えるとなると、どれくらい時間がかかるかわからない。
              オーム返し
 そもそも教えることは難しい。具体的な質問があれば何とかなるが、何か教育となると、テーマに関する森羅万象の情報を集める必要がある。それを理解しながら取捨選択し、重要なものからカリキュラムに入れていく。教えるためには、内容の10倍の知識量が必要といわれる。
 これから仕事の柱とするならチャンスである。ものすごく勉強になって力が付く。だが一度だけではコストパフォーマンスがとてつもなく悪い。


 これは企業内教育でも同じである。ベテラン社員にいくら知見があっても、体系的に教えることはできていない。一方通行に終わってしまう。
 たとえば、企業内の技術伝達に作業標準書をつくることがある。これを誰がつくるのか。知識を持っているベテランではなく、すこし仕事を齧った程度の人につくらせるのがいい。これから仕事をする人が、必要なことをベテランに聞きながらつくる。そのほうが、わかりやすい標準書ができる。

管理者批判

 どう転んでも批判されるやり方を選んだ西野氏は、管理・監督者の鏡である

 ワールドカップの日本対ポーランド戦での戦いに、賛否両論が渦巻いている。日本は、0-1で負けているにかかわらず、最後の10分間をパス回しでこのまま負けを選択。同グループのセネガル×コロンビアの微妙な結果で、決勝トーナメントへ進めたことである。
 その時点で、同時刻で行われている試合結果がどうなるか分からない。したがって、1点差の負けを選択するのは、危険な賭けであった。この10分の間にセネガルが点を入れれば、日本の予選敗退が確定してしまっていた。

 今回、日本のパス回しに対する外国メディアの批判は大きい。英国BBCなどは、日本はトーナメントでボコボコにされればいいとまで報道。私も日本チームのやり方を聞いたときは、こんなものはサッカーではないと思った。日本はあくまでも勝ちに行くべきであった。もしそれで日本がさらに点を取られ予選敗退しても、今より監督への批判は少なかったであろう。

              アジサイ 足羽山 

 しかしよく考えて見れば、西野監督はあえて批判を受ける道を選んだのではないか。
 今回、日本が決勝トーナメントへ行くことになっても、これだけ監督への批判が集まっている。もしあのときセネガルが点を入れ日本が予選敗退していたら、それこそ監督批判は熾烈を極めていたはずである。殺される可能性もある。

 つまり彼は、批判などまったく気にしていないのである。ポーランド戦で最後まで攻めていって批判を少なくしよう、運よく同点か勝利すれば絶賛される。そんなことなど毛頭考えていなかった。つまり、事態がどう転んでも批判を受ける道を選んだ。少しでも良く思われたいということなど念頭にない。そのことこそ賞賛に値する。



 そしてこれはまさに、理想的な管理者の行動である。
 『管理者は管理者であるが故に批判される存在である』
 つまり、管理者が行動を起こすときは自分への批判がどうなるかを考えてはいけない。誰でも人からは良い人と思われたいし褒められたい。それでは管理者として失格なのである(地獄の特訓から)。

 今回のワールドカップで日本が活躍すれば、このような後知恵の管理者本が出回るに違いない。

地獄の体験談

 社長の怒鳴り声が響き渡るようになるには、それほど長い期間必要でなかった

 30代のサラリーマン時代、管理者養成学校というところで「地獄の訓練」を受けたことがある。全泊13日間の完全合宿で、みっちりと「管理者」としての心構えと、言動を仕込まれる。


 私の所属する会社は、まず中堅社員2名を派遣した。
 何があったのか、研修から戻った2名は、その立ち居振舞いが一変していた。態度に自信があふれている。声も大きく、はっきりとしゃべるようになった。それを見た社長は、幹部社員35名すべてを派遣することにした。2人ずつ交代で約1年がかりである。
 交通費含めて1人30万円はかかる。派遣費用だけで、1000万円以上の出費である。そのうえ2週間も仕事から離れる。

 私が不安とともに、入校したのは昭和57年の春GW直前であった。56豪雪の排雪が、福井城址の内堀に山と積まれていたのを思い出す。
 富士山のふもと、富士宮駅からバス30分で訓練所に夕刻到着。バンガローが並ぶキャンプ場である。これから何かが始まる。訓練日数が13日間、全参加者130人、そして1班あたり13人という数字も不気味である。
            富士山H25.2.24
 訓練は翌朝、怒号の飛び交う入校式から始まった。大声だから、度肝を抜かれる。
 「座布団を踏むな!」
 「動作が遅い!」
 「声が小さい!」
 集団効率を上げるため、行動はすべて軍隊式でやる。竹刀を持った教官が睨みをきかせている。訓練参加者は私と同年輩、30歳前後の中小企業の中間管理職である。

 訓練目的は、ビジネス上のルールを理解し、効果的に自分の意見を主張し、部下を指導できるようにすることである。自覚しないまま訓練に望んでも、いっとき声が大きくなるだけで、得るものは少ない。
 訓練期間を通して、次の事項を体得する。
 ①正確な発音で、大きな声で話ができること。
 ②きちんとした挨拶ができること。
 ③行動の規範を自分のものにしていること。
 ④ビジネスルールの方向性を知っていること。
 ⑤人前で臆しないこと。
 ⑥話の組み立てができること。

 そのための実践訓練と個人別にテストが繰り返される。そのテストに合格することによって、これらを体得することができるはずであった。
 基本は発声である。訓練期間を通して常に大声を要求される。テストでも、声が小さくて感情が入っていないと容赦なく失格となる。たとえばドラマ訓練では、ある場面に合わせ表現力豊かに朗読する。そのほか、スピーチ、報告、歌唱訓練とそのテスト風景は、知らない人が見ると異様である。
 大きな音が苦痛な私には、この大声を出すことが難しかった。

 記憶力も必要であった。
 「行動力基本動作10か条」という、箇条書き文を暗記する訓練がある。電通の「鬼十則」を具体的にしたようなもので、モーレツ社員としての心構えをまとめたものである。これを1字1句間違わず暗記し、これも大声で発信する。

 また実務として、手紙の書き方や言葉での道案内訓練が役に立った。正式な手紙の書き方は納得できたし、道案内される本人の立場に立った誘導方法は新鮮であった。マナー教育すら受けたことがなかった私には、参考になることが多かった。
 訓練期間の最後に、テーマと内容を与えられたスピーチに合格して卒業する。字数で3~4,000字、時間にして6~7分の内容のものを、3つ短時間に覚える。

 楽しい訓練もあった。
 20キロおよび40キロの夜間歩行訓練は、私にとってはハイキングである。体力のない老人には苦役でも、30代の若者にとっては息抜きであった。

 悪名高かったのは、セールスガラスという歌唱訓練である。人通りの多い富士宮駅前で、大声で身振りを交えながら歌う。人前で何でもできる度胸をつけるものである。訓練生はこれを恥ずかしげもなく歌う。
 だがこれは度胸や能力がついたわけでもない。異様な雰囲気の訓練校の中にいたからこそできた。意識の問題である。帰属意識が嵩じれば、個人はなんでもするという好例であった。ほとんどの訓練がこれに近い。仲間がいなければあんな行動はとれない。
            獅子奮迅
 ともあれ私は130人中49番目(声の小さい私には精いっぱいだった)という成績で、無事に13日間の訓練を終えた。一時的に、自分の行動が変わったのは事実である。管理者が入れ替わり参加していたため、会社には半月ごとに訓練終了者が返ってくる。いつもはいい加減だった上司が、こわもての大声で指示してくる。会社内は、緊張感で引き締まっていた。


 残念ながら、それも時間の問題であった。
 「あれだけ費用をかけたのに、なんだこの有様は。」
 という、社長の虚しい怒鳴り声が響き渡るようになるには、それほど長い期間は必要でなかった。

少年期のトラウマ

 それなりの犠牲を払っても、大きな獲物を得られるかどうかは天命である

 小学生のころ、点数を溜めると景品を貰えるキャラメル菓子があった。月、火星、水星、木星、金星、土星、太陽の7種類があって、それぞれ1点~50点の点数を持ち、500点集めると安価な玩具、1500点集めると天体望遠鏡が貰える。あるいは、月から太陽までの7枚すべてそろえても、1500点とみなされる。

 当時私は、1~2年かけてようやく1200点ほど集めた。これでは500点商品は貰えても、目標の1500点にはほど遠い。カードも「月」だけが集まらず、天体望遠鏡には届かない。
 うまいことに、その「月」カードを持っている友人がいた。彼は、そのカード以外にはたいして持っておらず、トータル保有点数もほとんどなかったはずである。

        競馬  どっちが勝った?      鹿人  H28.3.24

 ここからが、バカなところである。
 普通なら、私の持っている500点(1000点でもいい)と、友人の「月」カードを交換すれば、WIN-WINになる。私は7枚のカードで天体望遠鏡、友人は500点分(1000点分)の景品がもらえる。

 ところが交渉がもつれ、友人は怒って「月」カードを燃やしてしまった。500点か1000点かで、交換条件が合わなかったのである。私が天体望遠鏡を受け取るのを、妬んだのだと思う。
 ほんとは私自身も、せっかく集めた膨大な点数カードを手放したくなかったのである。1000点渡せば、確実に交換できた。だが単なる1枚の「月」カードとの交換は、あまりにも惜しい。それだけ見た価値はまったく異なるからだ。

 しかたなく私は、500点2つで、しょうもない景品を受け取った。どんな景品を貰ったかは覚えていない。もちろん友人は何も貰えない。お互い目先の欲にとらわれ、しょぼいことになってしまった。



 これが一生のトラウマになった。
 以来私は、他人との交渉ごとは、必ず譲歩が付きものになってしまった。見返りを期待するからである。「損して得取る」の格言である。

 あれから60年。
 いまだ、その友人とは犬猿の仲である。

日本企業のゆくえ② 分化された企業

 「分化」には、メリットもあればデメリットもある。最適な方法を採用するだけ(太田肇氏の著書より)


 中野剛志氏が、企業や政策の在り方からイノベーションを説く一方で、企業内の個人一人一人のやる気を考えることで、企業の盛衰を論ずる人もいる。

 太田肇氏(同志社大教授)は、「なぜ日本企業は勝てなくなったのか」において、「分化」「未分化」という、耳慣れない概念を提案している。
 太田氏の云う「分化」とは、「個人が組織や集団から制度的、物理的、あるいは認識的に分別されること」であり、「未分化」とは「個人が組織や集団の中に溶け込み、埋没してしまっている状態」である。チーム競技でも、野球やサッカーはある程度「分化」され、「未分化」の綱引きやボートは個人の力が見えにくい。

 太田氏によれば、日本企業は「未分化」のために生産性が劣化、イノベーションが起きない。仲間うちの「たこつぼ」に入り込んでいるため、世間の常識が理解できず、企業不祥事も絶えない。また仕事の機能が明確になっていないから、成果主義や女性の登用もできない。雑用が多く創造性のある仕事ができないなど、さまざまな障害が発生している。

 したがって、企業が「分化」されると以下のようなメリットが生まれる。
①仕事の分担を明確にし、裁量権を与えることで、やる気の天井が取れる
②異質なチームワークでイノベーションが生まれる
③個人が分化することで、出世競争などゼロサムがプラスサムになる
④部下を管理したりまとめたりする仕事は大幅に減る
⑤かえって人間関係がよくなり、つながりがよくなる
 
 これらについて太田氏は、教員や医師、番組製作者等の例を挙げてメリットを強調している。企業内においても、ボルボ社のチーム生産方式、社内独立制度などの成功例を示している。また究極の「分化」は、スピンアウトして自営業になることである。

            成仏 H27.12.15

 しかし、このような「分化」が、すべての組織や集団、そしてその構成員にあてはまるわけではない。「分化」し機密事項が分散したため、ノウハウの蓄積ができなくなることもある。まさに診断士協会の会員同士が、そのジレンマに陥っている。鯖江の眼鏡製造の効率が悪いのは、専門事業ごとに「分化」しすぎたためである。管理者が管理業務を削減できる代わり、もっと手間のかかる外注管理業務が増える。

 さらに太田氏の提案で致命的なのは、「分化」するのにはどうすればいいのかという手段が全く見えないことである。かろうじて、「勤務時間や場所などの行動と機能を切り離して考える」と述べているだけで、具体性に乏しい。また、スピンアウトして自営業になるというのは、具体的ではあるが「分化」そのものを説明しているに過ぎない。
 
 むかしから労務管理においては、職能資格制度など業務内容を明確にし、ウェイト付けをしようとする試みは、いやというほどなされてきた。だがこれは、できそうでできない。ことごとく失敗している。流動的な仕事を分化しようとすればするほど、地獄の底なし沼に沈むようなものであった。それを解消できるのか。

 太田氏の提案は一考の余地はあっても、全面的に取り入れることはできない。どんなものにも、メリットもあればデメリットもある。自分たちの組織に最適な方法を採用するだけである。
 なにごとも中庸。ものはほどほどなのである。

29年版の5段階評価

 オリジナルの5段階評価表の改訂版である。

4~5年前に作ったものをベースに、1~2年ごとに、少しづつ手を加えている。ざっと見ただけでは、どこが変わったかわからない。それでもあと50したら完成し、新理論として定着しているかもしれない。



平成29年版5段階評価表

 

年代別

ルールの対応

自分が間違ったとき

他人の間違いに対し

会議や会話のとき

会員(お客)として

他人や組織を見る目

①いなければいけない人

25歳以下

(子孫を増やす)

新しくルールを作る

間違いを反省し是正する(賢人)

具体的適切な解決策を提示する

他人に話すように仕向ける

会の維持・改善に努める

いいところしか見えない

②いたほうがいい人

2540

(子孫を育てる)

ルールを改善する

間違えて、謝ってばかりいる(善人)

的外れな解決策を提示する

発言の内容が面白い

きちんと会費だけは払う

いいところを指摘する

③いてもいなくてもいい人

4060

(子孫を見守る)

ルールどおり仕事する

間違いを起こさない(見習い)

無関心

たまに話しても、面白くない

催促しないと会費を払わない

何もわからない

④いないほうがいい人

6080

(子孫のお世話になる)

ルールを守らない

自分の間違いがわからない(愚人)

解決策を持っているのに提示しない

ほとんどしゃべらない

文句ばかり言う

悪いところしか見えない

⑤いてはいけない人

80歳以上

(子孫の足を引っ張る)

ルールを変えようとしない

間違いを認めない(悪人)

非難・批判ばかりする

自分のことばかり話す

脱退を勧誘する

悪いところだけ指摘する


             にらみ H28.12.5

 

今回加わったのは、「他人や組織を見る目」である。

組織の人材育成や自己啓発のための心構えとして、肝に銘じたい。

 

たとえば、他人や政治家の悪口しか言わない評論家がいる。政権に対する、野党やメディアの反応を見ると、まさに「⑤いてはいけない人」に成り下がってしまった。憲法改正論議に関する「ルールの対応」への姿勢も最低である。その他の項目についても、ろくな評価はできない。    

そのような「いてはいけない人」のいいところを探すことが、はたしてできるであろうか。


 ちなみに、私自身の自己評価は④である。まだ下には下がいる。


「ほどほど」と「中途半端」

 「やりすぎ」「ほどほど」「中途半端」のバランスをとるのが人生である

 私の座右の銘は、「過ぎたるは及ばざるがごとし」である。このブログで何度も、「ものはほどほどがいい」と、言い続けてきた。
 その「ほどほど」とよく似た言葉に、「中途半端」がある。同じようでも、両者はまったく似て非なるものである。

 どう異なるのか。ある国語辞書によると、
 「ほどほど」・・・度が過ぎないで、ちょうどよい加減であること。適度。
 「中途半端」・・・始めた物事が完了しないでいること。態度などが徹底せず、どっちつかずの状態であること。また、そのさま。

 たとえばテストで、合格点が60点だったとしよう。勉強しなかったら零点である。普通は、60点より上の70点か80点を目指す。95点でもいい。運と勉強時間、能力がそろえば、目指した点数は何とかなる。
 ところが100点を目指すと、とたんに厳しくなる。卓越した知識と能力と合わせ、一瞬の不注意も許されない。100点を取るには、95点を取るに比べ100倍もの時間と頭脳が必要になる。ひとつの科目にそれだけ費やしていたら、それ以外の勉強などほったらかしになる。だから100点など目指すべきでない。80点か90点で我慢すべきである。
 これがほどほどである。

 「中途半端」とは、ここで80点どころか、60点もあきらめてしまうことである。50点不合格でも良しとしてしまう。

 すなわち「ほどほど」と「中途半端」の違いは、目標到達点の違いである。「中途半端」は、目標の到達地点に達する前に投げ出してしまうことである。
 「中途半端」以上に問題なのが、「やりすぎ」である。
 「やりすぎ」「ほどほど」「中途半端」のバランスをとれば、人生はうまくいく。

 つまりテストの場合には、
  やりすぎ;徹底して満点を狙う
  ほどほど;合格点よりやや上を狙う
  中途半端;合格点に達する前に諦める

      サクラ咲く H29.3.26

 その他、いくつか例を挙げてみよう。

 飲酒
  やりすぎ;前後の見境が無くなるまで飲む
  ほどほど;騒いで歌ってストレス発散する
  中途半端;人知れず飲みアル中になる

 禁煙
  やりすぎ;周囲1キロ以上禁煙、喫煙者とは絶交する
  ほどほど;自分では吸わないが、周囲の喫煙は歓迎。香りを楽しむ
  中途半端;煙草ではなく、大麻で我慢する

 武力
  やりすぎ; 北朝鮮
  ほどほど; 「普通」の国
  中途半端; 日本

 学費
  やりすぎ;アルバイトが本業になる(これでいいときもある)
  ほどほど;学費と生活費程度をアルバイトで稼ぐ
  中途半端;バイトしないで「社会が悪い」と大学を中退する

 貧困女性実施調査
  やりすぎ;立場をわきまえず、毎週3回以上通う
  ほどほど;むかしやったことがある
  中途半端;やったことがないのに批判だけする

 民主主義
  やりすぎ;些細なことまでこだわる(ポリティカルコレクトネス)
  ほどほど;決めたことは守る
  中途半端;皆が勝手に自己主張する

 死にどき
  やりすぎ;死んで周りの人を安心させる(やっと死んでくれた)
  ほどほど;ひっそりと息を引き取る(惜しい人を亡くした)
  中途半端;死んだとき、周囲を困らせ悲しませる(逆縁)

 この「ほどほど評価」と5段階評価で、人格評価ができる。
 それでも、厳密な分け方はできない。こんなことにあまりこだわると問題である。これもほどほどにしなければいけない。

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地元の文化と歴史

 福井の演歌を数多く歌えることが、グローバル展開できる世界人になる

 我が家の金魚鉢に、1匹の金魚がいる。昨秋イベントか何かで5匹ほど貰ったのが、今年のはじめとうとう単独になった。その状態で、狭い金魚鉢の中を、もう半年近く漂っている。
 一日中狭い水槽を、孤独のまま浮かぶ金魚には、同情せざるを得ない。

 この金魚に比べたら、私はこれまで数えきれないほどの旅行をしてきた。海外へは10回くらい。県内外への小旅行を合わせると、大小500回以上にはなる。なんと広い世界を知っていることか(これでも普通の人よりはるかに少ない)。
 
        たった一人で半年

 しかしよく考えてみたら私自身も、旅行先どころか、自国や地域のことなど何も知らない。この地元福井市でさえ、知らないところがたくさんある。26万人の人口のうち、知人は0.1%もいない。さらに福井には、片町のように、奥が深いうえリノベーションの激しい区域もある。ここだけ極めるにも、20年はかかる。

 もちろん、これまで訪問した旅行先の文化のことなど、ほとんど理解していない。旅行の目的が、飲み食いや山行であるのはいい方で、たいていなにかの付き合いで、なんとなく移動しているに過ぎなかった。旅先の文化や、景勝地を理解しようなどと思ったことはない。

 つまり、身近なことを理解しなければ、他国との差がはっきり分からないのである。旅先の文化を知ろうと思っても、比較できない。まして、中国や韓国、イスラム圏の国々のことなど、知るすべもない。これではいくら旅行しても同じことである。

       モンゴル大寺院大足H25.6.20

 したがって我々は、まずは地元のことを優先的に知る必要がある。お互いの国の違いがわかれば、理解し合うために何が必要かわかるし、他国についての興味も尽きない。

 ではそのために、どうしたらいいか。
 ひとつは観光ガイドになることである。
 人々が自分の地域の文化を強く自覚するのは、外部からの旅行者の視線を意識するときである。京都のように、観光の魅力にあふれた都市では、文化洗練の好循環が機能している。観光ガイドで、旅行者の案内をすれば、一石二鳥の効果がある。

 もう一つ、ご当地演歌を数多く、歌えるようになることである。持ち歌として20曲は欲しい。水森かおりや五木ひろしの福井演歌を注意深く聞けば、なるほどと思えるところ、おかしなところがいくつもある。その薀蓄を披露すれば、福井通になることは間違いない。片町も極めやすい。

 だから決して金魚をバカにしてはいけない。福井で金魚のような人がいたら、ぜひ応援したい。

診断士協会の発展

 若いときは、自らリスクをとって、経営の第一線で働いたほうがいい

 昨日は所属の中小企業診断士協会の総会に参加した。
 気が付いてみたら、福井県の正会員が85名にも増え、若い人が多くなった。総会の参加者は45名にもなっている。ざっと、ひと頃の2倍にもなる。総予算は10倍以上になり、剰余金もたんまり蓄積された。我が国や福井県の人口が減少してGDPが伸び悩み、財政赤字で苦しんでいる中で、驚異的な成長である。

 もちろんこれは、現在の会長をはじめ、役員の能力と努力に負うものである。素直に執行部を評価したい。そして、紅一点の「美しすぎる」女性診断士の存在も大きい。

     美人薄命 

 ただ、これ以上の拡大は問題である。今くらいがちょうどいい。
 そもそも、われわれ中小企業診断士のようなコンサル業は、他人の褌(ふんどし)で相撲を取る商売である。褌を借りるものが多くなると、肝心の褌を捲くものがいなくなる。農業経営者が縮小する中で、農協が肥大化していったことと重なってしまう。

 このことは、日本のすべての「実業」に当てはまる。船頭はいても、兵隊がいない。
 たとえば先日、ある経営者に事業拡大の相談を受けた。売れる企画を持ち、実績もあるため自力で製造業を立ち上げたいという。中国での労働コストが日本に追いついており、大きなチャンスである。
 ところが、従業員が集まらない(じじいの決死隊は短期決戦のみ)。それを補うため、作業の機械化やその資金獲得に、頭を絞ることになるのだが、前途多難である。

 できれば若いときは、自らリスクをとって、経営の第一線で働いてほしい。現場の知恵と技術、体力があって、はじめて企業経営は成り立つ。コンサルタントのなかに、私の子供や孫のような世代が増えると心配になる。褌はたくさん余っている。褌を締めるものが多いほど日本は強くなる。

 さらに、剰余金が溜まると経済流動性が無くなり、デフレを脱却することができなくなる。お金は使うためにある。そして、ありすぎると確実に争いになる。
 すべては、ほどほどがいいのである。

プレゼンテーションのバリ

 素人の話し手である我々は、無理やり「あー、えー」のバリ言葉を封印する必要はない

 昨日、吉田雅紀氏(あきない総合研究所代表)の、「プレゼンテーション」という演題の講演を聴いた。プレゼンテーションの目的は、他人の行動を変えることである。以前講習を受けた「メンタルコーチング」とともに、プレゼンテーションの技法をマスターすればビジネスのあらゆる場面で強力な武器となりうる。

 その講演の中で、「言葉のバリとり」というテーマがあった。他人のプレゼンを聞く方からすると、「えー」とか「あのー」など言葉のバリ(=言葉癖)は、気になるものである。昨日の講演時に行ったワークショップでも、たいていの人は数秒と経たずバリ言葉を発していた。このバリ言葉の典型は、「あーうー総理」と言われた大平正芳氏である。

 アナウンサーや落語家など、プロの話し手はほとんどバリ言葉を使うことがない。政治家では、前大阪市長の橋下徹氏がみごとである。バリを使わないことで、話が滑らかになり雄弁に聞こえる。聞き手はその話しぶりに聞きほれてしまい、つい説得されることが多い。下手糞な手書き文字より活字の方が、何となく信用できるのと同じである。

     無題

 しかし、じつは「あーうー」の大平正芳氏こそ、政治家の中でほんものの教養人であったと言われている。大平氏の演説から「あーうー」を抜いて筆記すると、そのまま筋の通った論文となる。大平氏は、バリ言葉でリズムを取ることで理論を組み立て、ストーリーを作り上げていたのではないか。
 落語家でも、本物の天才と言われた古今亭志ん朝は、「えー、おー」を頻繁に使っていた。

 そして現実の社会では、雄弁な人ほど薄っぺらい人が多い。あまりに言葉巧みな人は、詐欺師と疑ったほうがいい。詐欺師でなくとも言葉滑らかな人は、考えよりもつい言葉が先走ってしまう。一度言ったことは取り返すことが難しいから、弁の立つ人は言葉と行動が伴わず、周囲からは薄っぺらく思われる。


 したがって言葉の素人である我々は、無理やりバリ言葉を封印する必要はないと思う。気にしすぎると、プレゼンそのものができなくなる。若い人はともかく、余命短い人が、こんなことのために、余計な気配りや時間を費やすことはない。すべては、ほどほどがいいのである。

できないこと

 「不得手なこと」と「厭なこと」を混同すると腑抜ける

 私が今の単独での仕事をはじめて16年になる。
 それまで、新入社員のころを除いて、ほぼ中間管理職あるいは(小規模企業の)経営者として、部下を管理してきた。組織を辞めた理由は、体力の限界そして、人を使うことに耐えられなかったからである。

 じつはあのピーター・F・ドラッカーも、70年間にわたって部下を持ったことがない、と著書で述べている。彼は、「できない部下」を持つことに、我慢できなかったからだという。自身がマネジメントの神様でありながら、人を管理しマネージしていくことが下手だと自覚していた。

    カバ地獄 H28.6.17

 もちろん同じ経営コンサルタントでも、ドラッカーと私とでは比較するのもおこがましい。ドラッカーは、「できない部下」を使えないのに対し、私はそれと同時に「できる部下」を使うこともできなかった。

 ドラッカーは、『人は「やってはいけないこと」つまり自分ができないことはやらないほうがいい、自分にはその才能も力量もないと気づいたら、そこから遠ざかるという決断を早急に下すべき』、と言っている。間違っても「部下を管理する方法」などを学んではいけないのだという。


 しかし、「不得手なこと」と「厭なこと」を混同しないことが大切である。世の中には、どうしても必要な仕事がある。厭なことを皆が忌避するようになると、世の中が成り立たない。その人も腑抜けになってしまう。まったくストレスのない社会は、底なし沼である。
 だからすべては程度問題、ものはほどほどである。

早朝講話

 私自身が講習会に参加するときにも、講師にやさしい態度を取るようにしている

 今朝6時から、「丹南倫理法人会」での早朝講話を行った。
 倫理法人会は、各県や市区単位に組織され、(一社)倫理研究所の法人会員による、心の経営をめざす人々の集まりだという。

 「倫理」とか「心の経営」という、私の最も苦手な分野だけに、なにをテーマにするかが問題であった。人前でお説教じみた「講話」するのも気が引ける。結局、私の知識の範囲でしか話すことはできない。このブログで、ネチネチ書いてきたことを組み合わせて話すしかない。血迷って、「ムダと生きる」などと、わけのわからないテーマを設定してしまった。

 その上会場に入ったとたん、この会の特徴である、全員で合唱、大声での聖典朗読など、15分ほどの「前座」でビビってしまう。この異様な雰囲気と、プレゼン用の電子機器の接続がスムースにいかなかったこともあって、ぎくしゃく感が半端ではない。こんなことなら、あらかじめ1回くらい参加しておけばよかった。

            太っ腹
 
 それでも立ち往生することなしに、何とか40分の講話を終えることができた。
 講話を受ける方々が、聴くことにも年季が入っていたからである。ときどき頷いて相槌を打ってくれたり、ちょっとした冗談にも笑ってもらえると、気持ちよく話を続けることができる。

 自分にやさしいことは、他人にもやさしい。私自身が講習会に参加するときにも、できるだけこのような態度を取るようにしている。(もちろん、はじめから嫌いな講師は別である)