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令和2年の初詣

 昨日遅ればせながら、初詣の参拝を行った。初詣は松の内、このあたりでは15日までと言われる。11日でも遅くはない。
 天気がよかったので、近くの神明神社から足羽神社まで足を延ばした。

初詣神明神社 R2.1.11 初詣 足羽神社 R2.1.11 博物館から白山連峰 R2.1.11

 少し登ったところ、足羽山の頂上にある博物館屋上からの白山連峰は、絶景であった。2700Mの山腹は、すっぽり雪に覆われている。
 だが1500Mの荒島岳は、頂上付近がほんのり白くなっているだけ。福井市街地はもちろん、周辺の浄法寺山や富士写が岳、日野山など1000M級の山々、この足羽山もまったく雪の気配がない。この時期、こんなに雪が少なくていいのだろうか。ものごとすべて、多すぎても少なすぎてもいけない。
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頭がいいとは何か

 もともと空っぽの頭は、それ以上「無」を感じることはできない

 いろんな人の話を聴いたり、TVを見ていると、世の中にはじつに頭のいい人がいる。複雑な問題を瞬時に解決し、筋を通して説明する人は、つくづく羨ましい。豊富な知識と言葉を組み合わせ、素晴らしい理論を組み立てることができる。

 以前、経済学者の高橋洋一氏は、頭の良さについて、ある著書で次のようなことを言っていた。
 「頭が悪いのと根気がないのって、ほとんど一緒」、「壁にぶち当たったところで、匙を投げるか、必死に食らいつくか。そこの違いが大きい。」、「いつでも匙を投げてしまうと、物事を持続的に考える力が育たないから、考える力そのものがなえちゃう」、「・・・深く考えて、自分の頭でスーッと展開できるようになると、すごく早く処理できるようになるんだけどね。・・・・頭の中にそういう回路をつくっていく感じ」

 すなわち頭が良い人とは、根気よく物事を考える人である。
 たしかに、手におえないと思っていた複雑な事象も、時間をかければ理解できることがある。あきらめたら終わり。製品や技術開発も、成功の秘訣は「うまくいくまで続ける」ことであった。繰り返すことで、考える力も訓練できる。

               くるくるパー

 しかし、高橋氏は、東大理学部と経済学部を出て大蔵省に入り、東大法学部卒のキャリア官僚からも、一目置かれていた。われわれ凡人とは、かけ離れた頭脳回路を持っているはずだ。理論要素を有機的に結びつける力である。

 さらに、論理を組み立てるためには、根拠となる膨大な事柄を記憶していなければならない。優れた記憶力と記憶の蓄積が必要である。検索エンジンでは時間がかかりすぎる。私のような凡人には、その知識量が絶対的に足りない。悪いことに、いくら詰め込んでも、それ以上に忘れる。
 
 斬新なアイデアを出すには、いったん頭を空っぽにしろと言われる。それには、「禅」がいいらしい。だが、「禅」を何度やってもそのような心境になれない。
 もともと空っぽの頭では、「無」を感じることはできないのである。

記述式問題見送り

 どんな変化にも臨機応変に対応できる能力が、いまの時代には求められている

 先日文科大臣は、大學入試共通テストで再来年から導入される予定の国語と数学の記述式問題を見送ると表明した。もともと共通テストでの記述式は、公平性が担保出来ないという声があった。力量ある採点者を確保できないことも指摘されていた。
 この少し前には、英語の民間資格・検定試験の成績を共通テスト成績にプラスする計画が延期されており、入試制度の混乱が続いている。

 もちろん制度の変更は、受験生や受験産業、予備校、高校からは評判が悪い。無理筋の入試制度でも、なんとか対応しようとしていた人たちにとって、それまでの苦労が無に帰してしまう。こんなにころころ変えるのでは、まともな準備ができない。止めるなら、もっと早く決めて欲しかったという意見が大半である。

               狭き門 胎内くぐった H27.9.05

 しかし入試制度は、受けるほうがとやかく言うことではない。
 入試のやり方は、ころころ変えたほうがいいし、変えるべきである。しかも実施までにはまだ1年以上ある。

 なぜならこれからの日本は、変化に対応できる人材を、大量に育成しなければならないからである。その洗礼を浴びるには、大学受験こそ絶好の機会である。大学入試が毎年同じ繰り返しでは、マンネリのマニュアル人間しか社会に送り出せない。
 準備万端詰め込んだ知識を吐き出すだけでなく、どんなことにも臨機応変にこなしていける能力が、いまの時代には求められている。

 つまりいま世界の情勢は、入試見直し以上に急激な変化のさなかにある。ドッグイヤーを超えラットイヤー(1年で世代交代する)と言われる時代となった。これに対応しなければ、日本は世界に埋没する。
 この程度の制度変更に恐れをなしているのでは、先が思いやられる。

 さらに学生時代の勉強は、その内容よりも、勉強する姿勢を身に着けることのほうが重要である。臨機応変に、受験の変化に対応する訓練もその一つである。
 またどんな入試制度にしようとも、問題作成や採点において、必ず既得権益者が発生する。これは、制度を固定する場合ほど大きい。

                勉学に励む

 つぎに、入試制度そのものについてはどうか。
 鉛筆を転がすだけのマークシート式より記述式のほうが、確実に受験生の能力を高めることができる。
 たかが大学入試である。採点が難しいことや公平性を確保するより、自らの思いを文書や数式で正確に記述することのほうが重要である。この能力を10代から訓練しておきたい。その意味で、記述式を見直したことは残念であった。

ローマ教皇のお言葉

 核兵器廃絶の演説を、核を持っていない日本でやっても意味がない

 カトリック教会のフランシスコ・ローマ教皇が来日し、(報道で見る限り)日本中で大歓迎を受けている。昨日は長崎と広島を訪問し、核兵器廃絶に向けての演説を行った。

               キノコ雲

 しかしキリスト教こそ、西欧が南米・アジアへ植民地支配を行うための地ならし先陣だった、と学んでいるわれわれにとって、複雑な思いである。
 中世以降キリスト教宣教師は、各地を訪れてひたすら平和を念じ、武装解除を求めてきた。ほとんどの地域住民は、ころりと騙され、欧米列強のなすがままにされた。武器を持たず、平和経ばかり唱える人など、蹂躙するのは簡単である。

 もちろん宣教師はそんなことはおくびにも出さない。侵略された方も、そのことに気づいていない。欧米は自らの非道さをオブラートに包むのに、年季が入っている(温暖化防止もその一つ)。秀吉は、そのキリスト教の正体に気づき、過剰とも思える迫害を行った。そのため日本は、辛うじて西欧の植民地支配を免れたともいえる(何をまちがったか米国の支配下にある)。

 こんどの教皇の核兵器廃絶演説も、核を持っていない日本でやっても意味はない。近隣の北朝鮮はもちろん、韓国でさえ核武装論が現実味を帯びてきている。こんな時期だけに、日本の核武装をけん制することで、日本を骨抜きにしようとしているように思える。
 いま、無邪気にローマ教皇を歓迎している人々を見ると、「アホかいな」と思う。

小学校でトロッコ問題

 すべての意思決定は何かを犠牲にする。そのことを教えないから、ポエム大臣が迷走する

 山口県の小学校と中学校で「心理教育プログラム」として実施された授業での「トロッコ問題」が問題になっている。「トロッコ問題」は、ブレーキがないトロッコの線路の先に横たわる5人と1人がいる状況で、分岐点にいる自分が「何もせず5人が死ぬ」または、「レバーを引いて1人が死ぬ」のどちらかを選ぶものである。

 この授業内容に対して児童の保護者から「授業で不安を感じている」と学校に苦情が入ったらしい。学校側は一部の子どもに心理的不安を与えたとして、児童や保護者に文書で謝罪した。
 ある専門家は、「感受性の強い子は、場面をリアルに想像してショックを受けたり、気分の悪さを引きずってしまう」とコメント。たしかに生身の人間が、自分の意思ひとつで首と足がバラバラになるのは、大人でも気味が悪い。

                猫の祟り

 しかし、トリアージを持ち出すまでもなく、トロッコ問題はいつも身近にある。我々は毎日のように、トロッコ問題に直面している。
 たとえば先日、大阪の入管で、国外退去に抗議しハンストを行っていた外国人が餓死してしまった。彼は窃盗などで実刑判決を受け、仮釈放後に施設収容されていた。痛ましい出来事である。だが彼を日本に迎え入れていたら、国内で多くの犠牲者が出る可能性があった。1人の犯罪者を捕えるのは、その何倍もの人を救うためともいえる。

 また、牛肉1キロをつくるのに、1トンの水と10キロの穀物が必要である。つまり1キロのビフテキを食べる人は、その10倍もの人々を飢えさせている。また真夏にクーラーを運転しているおかげで、将来温暖化で亡くなる人は、いま涼しい思いをしている人の何倍にもなる。われわれは、気が付かないふりをしているだけである。いつもトロッコのレバーを引いている。

 そしてものごとは、1か0かではない。先のトロッコ問題は、あまりに単純化しすぎている。現実には、ややこしい背景がたくさんある。線路に横たわっている人が、5人の死にかけ老人と1人のいたいけな幼児では、人数による判断はできない。障碍者なら、また別の問題が発生する。5匹の子ブタと一人の悪人(ヒトラー)ではどうか。あるいは、AIにレバーをひかせたらどうなるか。

                よく見ろ

 そもそも、すべての意思決定は、なにかを犠牲にして何かを得ることである。そのことをきちんと教育しないから、何でも反対やゼロリスクを叫ぶ人が増える。処理水問題や憲法改正などで、ポエム・ルーピー大臣が迷走し、にっちもさっちもいかなくなるのである。日本が世界の後進国になりつつある大きな要因である。
 大人になってからでは遅い。小さいうちにトロッコ問題でショックを与えるべきである。無菌室で育てた子供は、ろくな大人にならない。

大学入学共通テスト

 人脈や仕組みを活用して、変化する社会を乗り切る能力評価も必要

 これまでのセンター試験に代わる、「大学入学共通テスト」が、2021年1月に実施されるという。そこではこれまでのセンター試験にくらべ、いろんな変更がある。たとえば、数学と国語で記述式が導入され、英語では「リーディング」と「リスニング」が重要となった。
 さらに英語では、大学入試センターが資格・検定試験の成績を管理する「大学入試英語成績提供システム」が運用される。受験生が受けた、民間資格・検定試験の成績を、大学入試センターが一元的に管理し、入試に利用する大学へ成績を提供するという。

 この共通テストについて、高校側からは反対の声が大きくなっている。とくに、民間の英語力評価については、公平性の観点から懸念の声がある。ヤジで文科大臣の選挙演説を「妨害」したこともある。
 たしかにこれまで、旧制度に基づいて一生懸命つめこみ勉強をしてきた人たちや、それを奨励・支援してきた学校や予備校にとっては都合が悪い。

                勉学に励む

 しかし、入試制度を頻繁に変更するのは、悪いことではない。受験生がいかに変化に対応できる人材かどうか評価するのも必要である。
 入試制度についての情報格差も、評価の対象となる。情報を収集できる能力があるかどうの評価である。机の上のペーパーだけがテストではない。社会に求められる人材は、暗記やつめこみ秀才でなく、世の中の仕組みをうまく活用し、環境変化に対応することができなければならない。

 つまりできる人ほど、人間関係、コミュニュケーション、情報収集力、人の話を聞く、仕事を振るなど、人の力を最大に利用する。地脈、人脈が豊富で、カンニングのうまい人ほど成功する。受験生の評価も、如何に人や世の中の仕組みを活用し、激動する社会を乗り切るかという課題解決能力で決めたらどうか。
 適正な人材の評価ができる究極の入試方法は、カンニングフリーの選抜試験である。

 また記述式の試験は、自分で考えをまとめる力が必要である。多少の採点ばらつきなどかまわない。それより、思っていることを表現するという力量を、全国の高校生が勉強できることの方がはるかに有意義である。

 もちろん、すべてものはほどほどである。

夏休み最後の日

 大災害や戦争を求める人は、私のように気の小さい人である

 多くの学校では、長い夏休みが終わり、明日から新学期である。毎年この時期になると子供の自殺が増える。内閣府の「自殺対策白書」によると、1年のなかでもっとも自殺が多い日は9月1日で、他の日の2.6倍になるらしい。

 もちろん、学校へ行きたくないからである。その大きな要因は人間関係だと言われている。学校でいじめに遭っている人なら、休み明けでなくても学校へ行きたくない。いじめでなくても、周りが厭な人ばかりならそうなる。

               猫の祟り

 じつは私も、小学校から中学にかけて、この日は1年中でもっとも憂鬱であった。簡単に自殺できたら、今ごろこの世にいなかったかもしれない。
 長い夏休みの間、ほとんど宿題に手を付けていなかったからである。「夏休みの友」をはじめ、登校日に提出しなければならない宿題はわんさかあった。これを一気に片づけなければならない。それもぎりぎり、最終日の夕方にならないとかかれない。なぜかしなければならないことより、どうでもいいことに手を付けてしまう。本丸はまるでやる気にならない。どんどんプレッシャーが増す。

 それでも深夜の1~2時までかけ、なんとか形だけ整える。1ページ1分もかけられないので、鉛筆で適当に書き汚す。やったふりがばれないか、びくつきながら登校していた。それこそ大地震か洪水で、世の中がめちゃくちゃになることを願っていた。
 さんざん懲りているはずなのに、かならず毎年同じことになるのが不思議である。

 いまでもそのことがトラウマになって、とききど夢でうなされる。
 大災害や戦争を求めたり自殺する人は、私のように気の小さい人、或いはものごとの軽重を理解できない人なのであろう。

49日の法要

 なかったら、孫や子に会う機会は激減する

 今日、父親が亡くなって最初の、49日法要を行った。親子兄弟を含め、親戚一同が集まる機会はめったにない。午前11時から読経。もっとかかるかと思ったら、法話を含めて30分そこそこであった。短いのは大歓迎で、長くてお布施が高いのは最悪である。
 そのあとの宴会は盛り上がった。

 これでお寺に関して一段落である。ややこしいことが続くので、こんなことでトラブルがあったらたまらない。「正式」には49日まで毎週、1週間おきに行うことになっていた。それは自己流・簡易的に済ました。

              獅子奮迅

 こんなしきたりはいつまで続くのか。
 先月、菩提寺の住職が亡くなったばかりである。代わりがいなかったら、(これ幸いと)縁を切ろうと思っていた。お寺はなくても困らないが、無くなると祟られるような気がする。一種の不安商法である。残念ながら腐れ縁は続く。なかったら、孫や子に会う機会は激減する。

 計算してみたら、お寺に支払うお金もバカにならない。父の遺産が少なかったのは、間違いなくパチンコとお布施のせいである。どちらも再生産性はない。カモの年金老人がいなくなると、パチンコ業界と宗教界は衰退する。その心の隙間を埋めるビジネスチャンスを、だれが掴むのであろうか。

技術士試験

 現実の世の中は、如何にカンニングがうまいかで勝負が決まる

 技術士試験の合格率が、30年度は9.1%と、一気に低くなった。29年度は13.3%で、28年度以前は14~16%であった。ちなみに私が最後に受けたときの合格率は14.3%であった。
 試験のレベルが上がったのか、受験者のレベルが下がったのか。

 私は、技術士試験を8回も受けた。ここ数年の傾向はわからないが、私が受けたときは、ほとんどが記述式であった。総監試験では、3時間半で600字原稿用紙5枚。最初構想を練る時間を30~60分として、ほぼ30分で600字のペースで書き込む。これでも以前の半分くらい、かなり字数は少なくなった。かっては記述式の筆記試験が終わると、右手が痙攣するほどであった。
 
                文書作成

 したがって技術士の試験を受ける人は、手で早く書くことができる人である。パソコンの書類作成がいくらうまくても、試験合格は難しい。合格率が低下していくのは、この辺りが影響しているのではないか。いまだにこんなことをやっているから、われわれ技術士の地位が上がらないのである。

 もちろんこれは、どのペーパーテストも同じである。いまだに入試や資格試験はほぼ紙の上で、知識の量と筆記力だけを競う、無理なテストを積み重ねている。現実の世の中は、知識より人脈や情報機器による知的ネットワークのほうが、はるかに重要である。すなわち、如何にカンニングがうまいかで勝負が決まるのである。

宇宙開発

 リュウグウに推進力を持たせれば、強力な兵器とすることができる

 先日、はやぶさ2が、小惑星のひとつリュウグウ着陸に成功し。こんどは、星の表面に向けて秒速2キロの「弾丸」を発射し、穴をあけた。いまはリュウグウの上を行ったり来たりしている。はやぶさ1の成功から15年である。

 今年1月には、中国が月面の裏側に探査機を着陸させている。これも世界で初めてである。月の裏側には電波が届かないため、あらかじめ月を周遊する反射パネルを打ち上げる。これで、基地としての活用や資源を獲得できる。地球が人で一杯になった場合の移民先として、開拓しておくことは重要である。

 もちろん宇宙開発は、ロシアとアメリカが大先進国である。その気になれば、この程度のことは簡単にできたはずだ。
 それでも、宇宙技術が世界中に広がっていくのはいいことである。
 あと数万年といわれる、人類の遺伝子劣化を食い止める技術もめどが立っており、数億年単位で人類が生存する可能性もある。人口が1兆人まで増え、温暖化で酸素濃度が半減するなど地球に人が住めなくなれば、それこそ他の星へ移住することも視野に入れなければならない。
 
              白龍復活 H30.7.23

 一方で宇宙開発は、間違いなく軍事目的である。他国ができないことをやることで、抑止力が生まれる。
 中国は、月の裏に基地を設けようとしている。南シナ海の例でも分かるように、表面上は資源開発と言って人工島などを創りながら、それを軍事拠点化している。

 日本はどうか。リュウグウを軍事拠点化することでできないし、しても無駄である。
 もっといい方法がある。
 リュウグウに推進力を持たせ、地球に呼び寄せる(もちろん平和目的だという)。人口衛星のエネルギーを推進力に変え、少しずつ何年もかかって軌道を変え、地球へ向かうように仕向ける。
 リュウグウの大きさは、約900mである。地球に落ちても全生命が壊滅することはないが、中国やアメリカをコテンパンに叩くぐらいは可能である。ロシアに向ければ、北方領土問題は解決する。拉致問題がこじれたら、北朝鮮にはほんとに落とす。これで日本が抱えていた問題の多くは解決する。
 核兵器を開発できないのなら、これくらいやっても叱られない。

体罰禁止令

 いままさに人を殺そうとする大きな子供を、体罰なしでやさしく説得できる自信はない

 児童虐待事件が、相ついで報道されている。安倍首相は、児童福祉法と児童虐待防止法の改正案のなかに、親による体罰禁止の規定を盛り込むと明言した。まもなく閣議決定し、国会に提出する方針だという。罰則はないらしい。

 また相変わらず、学校における体罰も問題になっている。背景には指導の未熟さがあるといわれる。体罰が行きすぎ、生徒が自殺してしまう悲惨な事件も起きている。これについては、いろんな法律や条例での縛りがある。学校教育法第11条でも、体罰の禁止が明確に定められている。
 多くの知識人は、どんな場合も体罰はいけない、体罰は子供の教育にはならないと言っている。

                微妙なバランス

 しかし一定の抑止にはなっても、法律をつくってこれらが無くなるとは思えない。もともと体罰や虐待はむかしのほうがはるかに多かった、少子化のせいでクローズアップされただけである。
 それに体罰と虐待とは異なる。体罰も、虐待に近いのもあれば軽い諌めもある。
 体罰を他人に対して行うのは勇気がいる。躾のため他人の子供を殴っている人は尊敬される。

 言葉だけで子供を説得できる人はまれである。テレビで説教を垂れることができるような口車のうまい人は、100人に一人もいない。大部分の人は、他人や子供を言葉だけで説得できない。
 体罰を全く受けてないというモーニングショウのコメンテーターと、オヤジにバンバン殴られて育ったビートたけしと比べてみよう。私は、口先だけの薄っぺらいコメンテーターより、後者の方が好きである。

 そしていま、体罰は絶対にいけないという、原理主義的な人が増えているのが気になる。おもてなしの顧客満足でも、行きすぎれば「カスハラ」になる。目の前の橋の上で、誰かを突き落そうとしている子供に対し、体罰なしでやさしく説得しなければならない。そんな自信はとても私にはない。

教師の暴力

 今回の「暴力」教師の何とやさしいことか。殴られた生徒は幸せである

 東京都町田市の都立高校で、生活指導の男性教師が男子生徒を殴る様子が動画で拡散され、騒ぎになっている。1年生の生徒がピアスをしているのを、教師が注意したことからコトが始まったらしい。動画の前半では、生徒が執拗に教師を挑発しているのがわかる。TV情報によると、生徒は以前から何度もピアスを外すよう言われていた。

 学校側と「暴力」を振るった教師は、生徒とその家族に謝罪し、件の教師は処分待ちで謹慎中だという。そしてワイドショーやネットなどで「専門家」のコメントを見ても、(生徒の言動に呆れながらも)教師の行動はいけないという。どんなことがあっても、教師は暴力を振るってはいけないらしい。

                仁王

 しかし、何があっても暴力はダメ、という考えは、きわめて単純で残酷である。
 殴られる前、生徒が教師に発していた言葉は、聞くに堪えないものであった。これほどひねくれた生徒は、口頭注意だけで矯正できるはずがない。「言うだけ指導」が成り立つのは、受けるものが一定レベルの者だけである。ここで痛い目に合わなければ、生徒は一生不幸になる。それを防ぐには、あの程度の「暴力」は必要であった。生半可なビンタでは未熟な人間は目覚めない。
 さらに教師も人間である。あそこまで生徒に罵倒され、何もしなかったら気が狂う。
 すなわちこの場合、暴力がなければみなが不幸になった。


 もし教師に暴力が認められないのなら、それに代わる権力を与えておかなければならない。一発レッドカードである。即時退学レベルの権限がなければ、未熟者は聞く耳持たない。武力行使できない日本政府の「遺憾砲」と同じである。坊主の長説教を聴く相手でもない。

 そして武力も一発退場も駄目なら、人間が教師をやってはいけない。AI教師に全面指導を任せるべきである。AIなら、イエローカード3枚で自動的に退学させる。

 そう考えたら、今回起こった教師の「暴力」は、何とやさしいことか。殴られた生徒は幸せである。いっとき痛いだけにすぎない。


 暴力、死刑、戦争。できれば避けたいが、すべて時と場合による。モノはほどほどである。「暴力絶対ダメ」で思考停止してしまったら、9条信者と同じ。考える力が無くなる。厭なことと悪いことは、まったく異なるのである。

医者と弁護士

 かれらがいくら増えても豊かさの実感を得られることはない

 今日と明日、センター試験が行われる。
 日本では学校成績が優秀な人は、たいてい医学部あるいは法学部に進学する。とくに理系では、トップから順番に高偏差値の医学部に吸い取られる。他の学部は落ちこぼれの寄せ集めの感すらする。
 すなわち日本は、医者と弁護士に「優秀」な人が集中する、いびつな社会構造になってしまった。

 問題なのは、いずれの職業もトラブルの解決を仕事とするだけで、世の中に新たに価値を創造するものではないことである。マイナスをプラスにすることはない。だからトラブルや問題がなければ仕事にならない。なければあえて仕事を作ろうとする。成績優秀だから、そのための知恵はいくらでも出てくる。

                体指を抱け

 まず医者である。
 かれらは無理やり病人をつくる。その手段の一つが健康診断である。血圧をはじめ、コレステロールや血糖値、γ-GDPなど、ありとあらゆる数値を検査し、少しでも外れると異常扱いする。おかげで日本人すべてが病人になってしまった。
 
 さらに問題なのは、80~90歳すぎてそのまま安楽に死ねる人に対し、無理やり延命治療を行うことである。現実に、末期とみられる胃ろう患者が、全国に25万人もいる。この終末医療には、かなりのコストとエネルギーを使う。そのため、ほんとに必要な人の医療ができない。そうやって常に、医師不足を演出している。動けない人に自動で治療すれば、医者の生産性は高まる。



 弁護士もひどい。司法制度改革で増え過ぎた弁護士を養うため、つぎつぎと国民に無理難題を押し付ける。近年増えてきたのが「弱者・被害者ビジネス」である。無理やり「弱者」をあぶり出し、彼らをそそのかして大枚をせしめる。
 社会問題をつくりあげるため、弁護士ドットコムや弁護士会が、怪しげなコメントを出し続けている。つい先だっても弁護士200名が、韓国の元徴用工について、人権問題として取り上げるようコメントを出し、ネットでバカにされている。

 なかには毎日のように、ブログでトンでも意見を書いている弁護士のセンセイがいる。どこをどうひねくれば、こんなアホな意見が出るのか、不思議でしょうがない。ものごとの一面だけをとらえ、都合に悪いことに耳をふさいでいる。閲覧者が多いのは、アホさ加減を確認するためである。まちがえてもブログ主の意見に共鳴しているからではない。

                ひも人間

 医者と弁護士。かれらは、いつからこんな「知恵者」になったのであろうか。ピータードラッカーの経営手法をうまく応用している。
 ドラッカーは、「企業の目的は顧客の創造である」という。
 社会や顧客は常に変化しており、自身が市場を創造することで、企業は永遠に反映する。
 さらに顧客の欲求は、顧客自身がそれを明確に認識していない。不安や不満を植え付けることで、欲求は飛躍的に高まる。


 このように、生産性のないビジネスを、学業成績トップクラスで小頭のいい人が行うのだから、国民はたまったものではない。豊かさを提供するべき優秀な人が、人々を奈落の底に陥れる。あたかも救世主のように、奈落から這い上がらせることを商売としている。国民の多くは、わけのわからないうちに毟り取られ、本来の経済活動はさっぱりになる。これではいくらGDPが増えても、豊かさの実感を得られるはずがない。

文科省幹部の不正疑惑

 先輩の元次官氏のようなパラダイムシフトが起これば、不正入試も正当化される

 文部科学省に新たな疑惑が浮上している。事務次官の有力候補と目された局長が、大学への補助事業採択の見返りに、自分の子供の入学点数水増しを要求したという。受託収賄疑惑事件である。

 といっても、裏口入学など珍しいことではない。もともと私立学校の場合、コネによる入学はあたりまえであった。最近では、正式の入試入学は半分くらいで、残りは特殊技能や推薦入学だと聞く。大手マスコミへの入社も限りなくクロである。今回裏口入学がこれだけ問題視されるのは、文科省の幹部が関わっていたからである。

            永平寺裏門 H27.10.09
            
 ところで、昨年も文科省幹部の不祥事があった。 
 モリカケ問題で有名になった前川元次官は、退職の原因となった天下りあっせんより、出会系クラブでの少女買春疑惑で有名である。文科省のトップだから、ほんとはこちらの方が罪深い。
 これを読売新聞がすっぱ抜いたところ、却っておかしなことになった。記者会見では、買春疑惑転じて「貧困女性の実地調査」と弁明し、それを支持するものが現われた。スケベ爺がいつの間にか、「貧困社会に目を向け、実地支援する人道的な元次官」ということになり、いまや全国講演で飛び回っている。

 そこで今回も、逮捕された文科省の局長の会見が聞きたい。不正入試や裏口入学について、どのように弁明するのか。先輩の前川氏に倣って、政権批判をからめ、うまい言葉で正当化すれば、マスコミは英雄視してくれる。またあらたな、パラダイムシフトが起こるかもしれない。2匹目の泥鰌は必ずいる。
 ただ、「裏口入学の実地調査」では、あまりにも陳腐である。局長氏の創造力が試される。



(追)
 不正入試事件には、件の局長と大学側をつないだ「コンサルタント」の存在がある。今回、局長の逮捕と同時に、医療コンサルティング会社元役員の谷口容疑者が、ほう助容疑で逮捕されている。特定業界の事情に精通したコーディネータである。私のような清貧コンサルタントとは異なり、利権の匂いには敏感である。このような輩が多いから、コンサルタントは胡散臭いと思われるのである。

大雨とオウム処刑

 松本「尊師」が神になるのは、社会が受け入れるからである

 昨日から大雨降りっぱなしである。地面の吸収能力以上に降るから、裏庭には池ができた。あと半日も続くと床下浸水になる。足羽川か九頭竜川が氾濫すれば、15年前の福井豪雨の再現である。

 全国をみると、とんでもないことになっている。
 数十年に一度の特別警戒警報が、九州、中国、四国などに次々出されている。この数十年に一度が頻繁に起こる。たしか昨年も聞いた。至る所で河川の氾濫と土砂崩れがおこり、人が流されたり生き埋めになっている。すでに50人以上の死者・行方不明者がでている。
 これでは風流どころではない。

            大雨 H30.7.07

 そのさなか、「尊師」の松本被告をはじめ、オウム幹部の7名が死刑を執行された。
 死刑制度の無い海外メディアは、「死刑は非人道的、残酷で犯罪の抑止効果もない」として、反発している。だが日本で死刑廃止は無理であろう。

 「尊師」の死が、彼を神格化させるという意見もある。現代のキリストである。松本被告もいずれは死ぬのだから、死刑とは関係ない。もし彼が神になるのなら、未来の社会が受け入れたからである。しかたがない。キリストも最初は邪悪な存在であった。

 問題があるとすれば、信者の声なき声がマスコミに届き、この大雨災害は「尊師」の祟りだと言い出しかねないことである。なんでも批判のメディアなら云い出しそうである。こうしてメディアが神をつくる。

出版物と読書

 コンサルサービスと同じで、無料では読むほうも気合が入らない

 出版物の販売高が、ピークの半分近くにまで下がっているという。ネット・スマホの普及で、速報性を売りにした週刊誌は厳しくなり、漫画もネットで読むほうが手軽である。文春のごとく、スキャンダルで好調な雑誌は例外で、書籍全体の発行部数は長期低落している。もちろん新聞の発行部数も同じである。
 いまや国民の大半はスマホとにらめっこで、新聞や週刊誌どころか、文庫本すら読んでいる人は、めったにいない。

 私自身、ほとんど本を買わなくなって久しい。狭い部屋が本で一杯になっているからである。けち臭い性分なので、雑誌すら捨てることができない。埃がこびりつき、無残に変色した古本が並んでいる。30年も前の社会・経済誌など、役に立つかどうかわからない。こうやって年寄りの家がゴミ屋敷になる。
        似非学者
 そこで20年ほど前から、図書館で借りることにしている。月刊誌なら、1~2か月遅れでも読める。溜まらないから場所に困らない。読んで面白くなかったら、そのまま返却すればいい。

 何よりいいのは、借りた本は返さないといけないので、少なくともページをめくる(借金したほうが事業に身が入るのと同じである)。買った本では、いつでも読めると思うから、並べるだけで安心してしまう。読んでないから捨てられないという悪循環に陥る。本屋と出版社の苦境に追い打ちをかけていた。

 30年以上この回転を続けている。毎年ざっと300冊。30年で1万冊。話半分でも5000冊は、図書館を利用している。だが気合を入れて読むのは1割もない。支援機関のコンサルサービスと同じで、無料では本気になれない。自宅にゴミが増えないだけいいか。

日野皓正の往復ビンタ

 「体罰」を受けた中学生は大物である。これを勲章にして世界的なドラマーになる

 トランペット奏者の日野皓正氏が、世田谷のコンサート会場で、ドラムを演奏していた男子中学生の顔に往復ビンタを加えていた。コンサートは中学生体験学習のひとつで、日野氏の指導を受けて練習した生徒約40人が成果を発表する場だった。日野氏は、生徒の保護者に対し「生徒のソロ演奏が長くなりすぎたので、止めようとした」と説明。また終了後には、ビンタの生徒とも話し合ったらしい。

 もちろん、中庸を知らない原理主義のメディアや教育関係者にとって、なにがあろうと「体罰」は絶対厳禁である。表ざたになったとたん、TVのワイドショウなどに取り上げられ、格好の攻撃材料となるに違いない。番組制作者は、いい時事ネタができたと思って喜んでいる。

             ゴミ

 しかし、体罰が絶対悪であるはずはない。時と場合によって、(少なくとも一生に一度は)必要なこともある。この場合も、前後の事情を聞いたうえで動画を見ると、少年そして世間の過ちを正す、千載一遇の機会であったように見える。現にネット世論では、日野氏の行動を賞賛する声が圧倒的に多い。動画がなければ、ただの暴力事件で終わっていたはずだ。
 
 「ビンタ」に至ったいきさつは、以下の通りである。
 件の中学生がドラムを暴走させ、ソロを延々とやり続け、他のパートに回さなかった。いくら止めようとしても止まらず、日野氏が近づいて口頭で注意。それでもやまず、ステックを取り上げるが、この中学生、今度は手で叩きだした。その状態でしばらくにらみ合った後、最後の手段として、左右の張り手を一発づつ送り込んだ。

 ここで何もしなかったら、公演どころか、その中学生の人生も悲惨なものになった。アメリカなら、射殺されていたかもしれない。日本の子どもは、何をしても罰せられないとなれば、将来一段と犯罪者が増える。


 それにしても、「体罰」を受けた中学生は大物である。こんなことでひるむはずはない。これを勲章にしてこの先を歩んでいけば、必ず世界的なドラマーになる。もしこの「体罰」が無かったら、ただの嫌われルンペンじじいになっていたであろう。

カンニングのすすめ

 カンニングなしの競争は、箱庭の運動会である。ポリティカルコレクトネスが日本を潰す
 
 入試や資格試験など、個人の力量を比較するためには、カンニング厳禁である。
 将棋も同じである。NHK杯早指しは別として、将棋の対局を見ていると、棋士は頻繁に席を立つ。汗を出さずに水分を取っているので、トイレが近くなる。中学生の藤井4段ですら、10~20分おきに席を立っていた。これではカンニングも容易にできる。対局を見ている仲間が、AIの計算情報を通知すればいい。昨年三浦9段が、スマホでAIの指し手を見ていたのではないかと疑われたことがあった。

        福井城址南天守 桜咲く H28.4.3

 実社会ではどうか。仕事は自分だけの力ではできない。できる人ほど、人間関係、コミュニュケーション、情報収集力、人の話を聞く、仕事を振るなど、人の力を最大に利用する。地脈、人脈が豊富で、カンニングのうまい人ほど成功する。如何にカンニングができるかが問われている。

 つまりすべてのビジネスは、人的な交流がカギを握っている。あの加計学園も、もともと学園事務長と愛媛県会議員との交友関係から始まった。どのような認可施設も、必ず政治家の親戚か友人が噛んでいる。日本では、5代遡ればみな親戚である。その気になれば、人脈としての親戚や友人はいくらでもいる。 
 ほんとの実力は、オールフリーでの競争である。もちろんコネも実力のうちである。
 

 したがって、ほんとの実力を測れるのは、すべての持ち込みを許可した試験である。記憶力を試すだけの試験では限界がある。電卓どころか、書籍やネットワークにつながったパソコン、場合によっては人の持ち込みも許可する。これに勝利した人が、ビジネスでも勝利する。 
 カンニングなしの競争は、箱庭の運動会である。潔癖症のポリティカルコレクトネス世界は、人種間の生存競争に敗れる。
 これも、程度問題だけどね。

学力の向上

 教える人は、生徒が興味を持つきっかけを与えるだけ。あとは生徒が勝手に勉強する

 高校時代、化学が苦手だった。物理はいくつかの公式を覚えれば、何とかなる。しかし化学では、無数の化学記号や反応式が、つぎつぎ出てくるのに閉口した。大学入試も、化学の試験は30点ぐらいしか取れなかった。

 化学が嫌いだったのは、基本的な物質のしくみを理解していなかったからである。原子や分子の構造、電子配列、さらに周期表の読み方、元素間の関係など、物質の成り立ちがわかっていれば、化学反応の理屈が納得できる。それがわからないまま、暗記だけの力仕事には耐えられない。
 最近、「元素周期表で世界はすべて読み解ける(吉田たかよし氏著)」を読んで、このことがよく分かった。 

     逆さ築山 H29.1.15

 つまり、教育では如何に生徒が興味を覚えるかが重要である。
 たとえば、中国や韓国と歴史論争が起こっている。多くの人は中国や韓国に対し、どう反論していいのかわからない。
 そこで、尖閣や竹島、慰安婦について、その歴史的背景を教えたら、喜んで飛びつく。慰安婦の歴史にしても、古代にさかのぼった考察が必要になる。しっかりとした理論武装をするためには、日本だけでなく世界の歴史の勉強が必要である。
 それなしに歴史を勉強してもつまらない。授業でただやみくもに年代や人物、事実を覚えるだけでは、たいてい「それがどうした」となる。

 もちろんどの教科も同じである。
 教える人は、生徒が興味を持つきっかけを与えるだけでいい。あとは生徒が勝手に勉強する。興味のない授業は、お経を聞くより苦痛である。

大学教育の無償化

 多額の借金をしてまで、行く価値のある大学はどれだけあるのか
 
 憲法改正に絡んで、高等教育(=大学)の無償化が俎板の上に乗っている。世論調査によると、4~50代の大学生を抱える年代では無償化に賛成、それ以上では反対の傾向が出ているという。 
 私が大学生のときは、年間授業料が6千円、毎月2万円の仕送りでやりくりしていた。初任給4万円の時代である。いまの授業料は年間54万円だから、やや高くなった。

 では、この無償化のために一体いくらかかるのか。
 国立大学の在籍者数は、およそ40万人。年間54万円を掛ければ、約2200億円である。50年前、国立大学入学定員は約7万人で、そのときの世代人数は260万人。いまは、世代人数が100万人に激減しているのに、入学定員は10万人と3割も増えている。 じつは、それ以上に私立がすごい。私立を含めると、じつに毎年60万人も大学に入学している。もし授業料無償化を私立大まで含めると、毎年約3兆7千億円が必要になるという。
 それでもお金ならいくらでもある。日本では毎年経常利益が増えたぶん、遣いきれないお金が山のように溜まっている。お金は遣うためにある。

      F-15J 飛翔 H28.10.1

 しかし、何にでも無尽蔵にお金を出していいわけがない。大学のように何をしているかわからないところには出すと、完璧なモラルハザードに陥る。

 なぜここまで進学率が高くなったのか。
 高等教育を受けるかどうかで、生涯賃金の上昇つまり個人的利益につながるからである。現実に高卒者にくらべ、大学・大学院卒者は、生涯所得が6~7000万円も多いという。これなら多少無理しても、大学へ入ろうとする。
 これを無償化では、不公平すぎる。またその分、社会に貢献しているのかと言えば、大いに疑問である。逆ではないか。

 したがって大学卒業者には、その何割かでも支払ってもらうことが合理的である。いわゆる出世払いである。所得が増えた6000万円のうち1000万円も出せば、ざっと毎年6兆円。それだけで大学が運営できる。
何のことはない、累進課税である。

 あるいは不公平にならないためには、全員入学である。
 そうなるとそもそも、これだけ多くの人が大学へ行く必要があるのか、となる。少なく見ても半分は、まともに勉強していない。さらに、大学職員の給料が高すぎるのではないか。問題はややこしい。間違いなく言えるのは、多額の金を遣ってまで、行く価値のある大学は、きわめて少ないということである。